keikeiさんの闘病記(2)


頚椎椎間板ヘルニア

手術韓国で内視鏡レーザー頚椎椎間板ヘルニア切除術(PECD)
入院、MRI、レーザー手術



レーニン館とクレムリン時計台

ウリドウル病院院長と面談診察
レーザー手術決断!
06月28日(月)
朝、8時に起きて、昨日買ったカップラーメンを食べて、9時までにホテルをチェックアウトした。9時にチョウさんが迎えに来て、ウリドウル病院に向かった。
病院までは10分。9時15分には10階の病院に着いて、Haさんに会った。
病院長の部屋に案内されると、初めて、病院長に会った。50歳くらいの、少し白髪頭を想像していたら、なんと髪の毛の黒々とした若そうな人が部屋に座っていた。まだ30代後半か40代前半かと思えた。
後でHaさんに聞いて解ったが医院長は48歳だった。
Haさんは、
医院長は、「金曜日に診察を受けた医師とは違った意見を持っています」と言った。
私は、「一体どう違った意見なのだろう?」
「もっと、大きく手術をしなければならないのだろうか?」
「それとも、少ない手術なのだろうか?」と思った。

医院長は、ゆっくりと話始めた。英語は使うのだが、それ程は上手ではない。でも脊髄に関する専門用語を使うので、ちょっと解らない所もある
医院長は、
「まずは、C6とC7の間で今痛みを発生させているヘルニアをレーザーで取り除きたい」
「もし、それでも、痛みが無くならない場合は、後日、C5とC6の間はヘルニアの手術をする。そのヘルニアは固まっているので、固定手術をするのが良い。でも固定は2つの骨で3つではない」
という意見だった。
「でも、多分、C6とC7の」間の手術だけで大丈夫だと思う」と言ってくれた。
私の書いてきた方法と近い状況だったので、私は100%賛成した。
Haさんが、
「良く考えて、夕方までに返事をしてくれれば、明日手術ができます」と言った。
私はもう、考える必要は無いと思った。
チョウさんは、「keikeiさん、どうする?大学病院に行ってみるか?」と訊いてきたけど、私は、
「内視鏡レーザー手術ができるなら、ここでやりましょう。C6,C7のヘルニアの手術をしてから駄目なら、それからまた考えれば良いですよ。大学病院に行く理由は無いです」と言って即決めた。すぐにHaさんと事務所に行き、同意書にサインをした。
Haさんは、「午後に入院して下さい」と、部屋の鍵をくれた。

外で昼を食べて、荷物を持って、病院の11階の部屋に入った。エレベーターで11階に着く時、私が、チョウさんに、
「日本の有名な病院だと手術まで9年待ちだそうですよ。9年も待っていられるのなら、手術なんか要らないですよね。」というと、首にサポートをしていた、おばさんが隣で笑っていた。エレベーターを降りた所でチョウさんが日本語で、そのおばさんに、
「首の手術をしたのですか?人口骨をいれたのですか?良くなりましたか?」
と聞くと、
「ええ。でも、まだ10日だから、まだですよ」と答えた。
やっぱり、「固定手術をすると回復に時間がかかるのだなあ」と思った。

通路を歩いていると多くの患者が入院しているのが見える。8人部屋から4人部屋などがある。
「うーん。隣に韓国人が居るのも今一だなあ。でもまあ、仕方が無いなあ」と思っていると、着いた部屋は一人部屋、ホテルの様だ。液晶TVはあるし、冷蔵庫、シャワー、コンピューターまでついている。隣で8人部屋に居る人には恐縮だが、やっぱりこの方が気楽だ。
もう、チョウさんには、居てもらっても仕方がないので、「チョウさん、もう仕事に戻って貰っても大丈夫ですよ。」と言って、戻って貰った。
午後は看護婦が持ってきた病院着にも着替えずに、ソファに座って、internetをしていた。相変わらず、ヘルニア手術の調査を続けていた。とくにPECD手術と決まったので、internetで詳細を調べた。
てっきり、私は後ろから手術をすると思っていたのだが、internetで調べたら、どうやら前から手術をするようだ。首を上に向けて。
首が上に向かないのに、私はどうするのだろうか?麻酔をすれば、首が上がるのだろうか?
でも、それは、首の辺りだけで、腕には利かないから、腕にも麻酔をするのだろうか?
でも、麻酔をして、無理やり首をまげたら、神経を圧迫していて、手術でヘルニアを取り除いても、腰椎の時と同じように、足の神経が麻痺して、筋肉が使えなくなったりもするのでは無いだろうか?等の不安が出てきた。

夕方になって、看護婦が手術着(病院着とは違う)を持って来た。着替えるのだと言う。あまり英語が出来ないので、よくは解らなかったが。
後で良いのかと思ったらすぐに着替えてくれと言う。よく理由は解らなかった。でも逆らっても仕方が無いので、着替えた。

8時ごろになって、DIETECの李さんがお見舞いに来てくれた。
李さんは、「keikeiさん、何か飲み物でも買ってきますよ。」と言うので、
「じゃ、すぐそこの病院の中にありますから、お願いします」
と言うと部屋を出て行ったきり、帰って来ない。
その間に看護婦が来て、明日の予定を話していった。薬等の説明をだどたどしい英語で説明した。
直ぐ、李さんが帰って来ると思ったので、
「My friend will come in a few minutes please wait」
と言ったのだけど、理解しても貰えず、彼女は部屋を出て行ってしまった。
李さんは、ところが30分経っても、帰って来ない。
「一体何処まで飲み物を買いに行ったのだろうか?まさか、外にでたら9時過ぎなので病院に入れて貰えなくなってしまったのか?」と思った。
李さんの電話番号も解らないので、チョウさんに電話してみた。チョウさんに電話をするのと同時に李さんが部屋に入って来た。チョウさんと電話で話しながら。
なんと大きな買い物袋をぶら下げて、大きなジュース、水、ミルク、すしまで買ってきた。
「李さん、私は今夜、12時からは、水も食べ物も駄目で、明朝には手術、あさって退院する予定ですよ。」
と言った。明らかに荷物になると思った。でもせっかく買ってきてくれたので、すしを食べた。以外に美味しかった。

10時ごろ李さんが帰ってから、看護婦が抗生物質を注射しに来た。彼女はまだ20歳前後と思われ、経験不足な感じだった。抗生物質を左腕に注射しようとしたが、針が血管に入らず薬を入れようとして、私が「痛い」と言うと、
「I am sorry。My friend will come. Because you are a foreigner.」
と言って部屋を去って行った。
何で外人だと、別の人が注射するのかちょっと疑問もあったが、明らかに私は特別扱いである事は間違いないと思った。
暫くすると、別の看護婦が来て、私の腕を見て、右の腕の中間くらいの血管を見付けて、上手く注射をした。すると、何故か、左の肩が少し痛くなったので、
ちょっと左の肩が痛い。」
そう言ったとたんに、彼女は、そそくさと部屋を出て行ってしまった。私は、
「そんなあ。看護婦に逃げられては、誰に訴えれば良いのかなあ」と思った。
特に問題は出なかった。







6月29日 C6・C7内視鏡レーザー
頚椎椎間板ヘルニア切除術(PECD)
6月29日(火)レーザー手術 (PECD)

00時を過ぎた。もう水も食べ物も禁止だ。それは、たいした問題ではないが、どうも不安が残る。昨日は、何回か看護婦が、
「今回の手術で上手くいくとは、限りませんよ。駄目だったらもう一回、別の場所を手術しますから」と言う。
「今回で治る可能性が低いのだろうか?」
と思うが、「解っています」と答えていた。
また、internetでの上手く行かなかった話などを読んだ記憶がよみがえってきた。多分眠ったのだろうが、眠りが浅い感じだった。
朝6時になった。
昨夜、抗生物質注射で失敗した若い看護婦が戻って来た。今度は点滴を持っている。私は何なのかと思って、
「What is it? Is it pain killer?」
と2回聞いたけど、理解して貰えずに諦めた。
私が右腕で良いか。と聞いて、右腕を出したら、
「Your operation is left so I need your left arm」
と言われて、仕方なく左腕を出した。
彼女は、左手の甲に点滴を入れた。
今度は成功だった。「ああ、良かった。」と思った。
点滴が手に入るとなんとなく一人前の病人と言う感じがする。手術は今朝とは聞いていたが、時間がはっきり解らない。何人かに聞いたけど、誰も解らない。
チョウさんは、8時半ごろ病院に来て、Haさんに聞くと9時からだと言う。すでに9時5分。直ぐにでも手術室に入るそうだ。

直ぐに何人かの看護婦が来て、運搬用ベッドに私を載せ代えた。チョウさんが、手術室の入り口まで着いて来てくれた。そこからは患者と医者のみらしく、チョウさんが
「keikeiさんがんばって下さい」と励ましてくれた。

手術室に入ると日本語を話す若者がいた。
「心配しないで下さい。」
「私は少し日本語が出来ます」
「手術は少し痛いかも知れません」
「痛かったら左手を上げて下さい」
「手術は1時間掛かります」
とか色々と話しかける。確かに、日本語はそれ程とは思えない。同じ事を何度も繰り返している。
「うるさいなあ。」
とは思ったがこんな場面で静かに何も言わないよりは遥かに良いと思った。
手術台に着いた。さて手術台への移動だ。4、5人で移動。頭を平らにしようとする。首は痛みで真っ直ぐにはならない事を伝える。
「どうして、何処に行っても患者の情報が伝わっていないのだろうか?米国の病院なら必ず情報は次の部署に伝わる仕組みになっているのに」と思う。
枕を入れて貰う。でも、平らにしないと手術が出来ないという。私はまた腰を上げて、こうすればもう少し頭を下げる事ができる。でも、全くの平らにはならない。でも、その姿勢で満足したのか、日本語のできる若者は、
「手術は1時間かかります。このままで一時間大丈夫ですか?」と聞く。
「大丈夫だと思う」と答えた。
手術室に居る人は全員若い。少なくても7,8人は居るが、どう見ても40歳を超えている人は一人も居ない。
私の顔はもちろんの事、手術場所以外の場所全てにカバーを掛け始めた。何回もテープで固定して、動かない様にした。右側を開けて、明らかに右側から手術をしようとしたので、
「私の問題は左ですよ。右でないですよ」
と何度か繰り返した。日本語の若者は分かったのか、分からないのか、定かでは無かったが、
「大丈夫です」と答えた。

米国なら手術時は勿論の事、ステロイド注射のような物でも治療をする時には必ず、担当の人が治療前に名前、生年月日、今どんな治療をしようとしているのか?等を患者本人に聞くシステムになっている。これは日本にも無いが、間違いを防ぐのには、良いシステムだと思う。更に、病院、特に緊急病院は、受付をすると手首に名前、生年月日が入ったバンドを付けられる。これも患者を間違えない様にする方法で良い方法だと思う。

医院長が来て、直ぐに手術に入った。
まずは麻酔から、少し痛みがあったが、これはたいした事は無い。
7,8本麻酔注射をしたかと思うと、なんだか少し太そうな物が首に挿入されてきた
日本語の若者が「少し痛いかもしれません」と言うといきなり、ハンマーの様な物でこんこんこん、叩き始めた。振動が頭まで伝わって来た。何か針のような物を首の骨の中を通過させている感じだ。振動はするが、痛みはそれ程では無い。
また、若者が「レーザーを始めます。少し痛いかもしれません」と言う。

レーザーが始まった。何か、トントントン、いう感じがある。私は、レーザーは、静かで振動等は無いと思っていたので、ちょっと面食らった。10秒位は、問題なかったが、その後腕に痛みが走った。
「痛い」と言って、左腕を上げようとしたが、左腕は多くのカバーがあり上がらない。
「全く、日本語の若者はなんて事を言ったのだ。腕なんか上がる訳ないじゃあないか」
仕方なく、「痛いー!」を繰り返した。
医院長は
レーザーを一時止めた。4,5秒でまた、スタートした。
また、15秒位で痛みが走り、「痛い、痛い」
 レーザーを止めて、休み。この繰り返し。

これを30分くらいやったと思うが、背中の痛みが全く無くなった。
「これは、ヘルニアを除去できて、神経への除圧が完了したに違い無い」
と確信した。
「ああ、良かった」と思った。
身体の緊張も解きほぐれて、筋肉の力も抜けた。
医院長は、
「This is going to be a last process」と言った。
「ああ、後は椎間板の周りをレーザーで綺麗にする程度か」と思った。
何か注射液みたいな物が背骨の中に入っていく感じがした。突然また、針で刺すような痛み
「痛い」と言うと、
ストップ。今度はレーザー。トントンと15秒

また「痛い」
続いて、注射針痛み
また「痛い」
レーザー
この繰り返しを多分40分位はやったと思う。


医院長が
「All done」と言って終わった。
顔や腕のカバーを全て、外した。私の上半身を起こしてくれて、
医院長は、
「首を後ろに曲げてみて下さい」と言う。
「痛みは確かに無くなったが、首を後ろに反らすのはどうだろうか」
と思ったがやってみた。かなり後ろまで曲げても 痛みは無い「やったー!」と思った。
もし、C5,C6の間のヘルニアが少しでも痛みに影響していたなら、痛み無しで首は後ろには反らせないはずだから。

医院長の推測は「正解」だった。
最高に嬉しくなった。

しかし痛い手術だった。
internetで、「痛い痛いと手術中言っている内に手術は終った」
という記事を思い出した。その時には分からなかったが、今ようやく意味が分かった。
「最初に知らなくて良かった」と思った。

若者達は私を病室への移動ベッドに載せ替えた。また4,5人でシーツごと大変そうに移動している。もう私は、痛みが無く、一人で移動できそうだったが。

移動ベッドの上では、
枕なし。平らに寝ている。MRIを撮影。今回はもう頭が全く平らになるので問題は無い。
MRIは20分。
「The operation went well. Everything looks good」
とHaさんが教えてくれた。
私は、
「I can tell from my condition」と言った。

レントゲン。これも寝ている状態で撮ったが、起きても全く問題ないようだった。

その後病室へ戻った。病室のベッドでも頭が平らになるので、
「すばらしい」
2年半振りだ。2年くらい前に歯医者で頭が枕につけられなくて苦労した事があったのを思い出す。

食事が来たので、身体を起こして食事を始めた。Haさんは、
「起き上がっても大丈夫ですよ」と言った。
私は、「はい。多分、もうゴルフも出来ると思いますよ」と言ったら、Haさんは、渋い顔をした。
食事の後、夕べ眠っていないので、眠くなって眠ってしまった。いびきをかいていたような気がした。チョウさんとHaさんが傍で大分長く話しをしていたようだった。

3時間くらいは眠ったのだろうか。起きたら、もう夕方で誰も居なかった。
凄く気分が良く、もう退院したい気持ちだった。

トイレに行きたくなって、点滴を見ると、ベッドの柱に掛かっている。移動式に掛かっていないので、バッグを手でぶら下げて行くしかない。バッグを手で取り、ぶら下げて、トイレへ。
小便をする為にバッグの高さは腰の辺りになった。小便は凄くゆっくりで3分くらいは掛かってしまったようだ。

戻ってソファに座って、暇なのでコンピューターでもやろうかと、ケーブルを自分のコンピューターに繋いだ。その時に点滴のチューブの中が血で真っ赤になって入る事に気づいた。バッグの中までは行っていないが、その近辺まで血が逆流している。
「なんかまずそうだなあ。」
と思ったので、緊急ボタンを押した。1分くらい時間がたったが何も起こらない。
「ボタンを間違えたのか?」
と思っていたら、看護婦の声がして部屋に入って来た。
点滴のチューブを見せたら、直ぐに解って、対処してくれた。そのすぐ後Haさんも部屋に来た。その頃から汗が出始めた。Haさんにタオルを取って貰って、水を貰った。少し気分が良くなったが、まだ汗は出ている。
別の看護婦が部屋に来て、「急に立つとそういう事があります。」
と言う。ほかにもそういう人がいるそうだ。私は多分、点滴のバッグに血液が逆流してしまった事が悪かったのかと思ったが。
注射をしてもらって30分くらいで楽になった。汗も止まった。
その時チョウさんが部屋に入ってきた。多分6時ごろだったのだろうと思う。チョウさんもHaさんから話しを聞いて心配そうな顔つきになった。
7時ごろになって、DIETECの若者達 5,6人が金さんとお見舞いに来た。私は直接に仕事を一緒にした記憶は無いが、電話とかで話した事があったりした人達かもしれない。
チョウさんが「見舞いに行け」と言ったのかもしれない。

丁度チョウさんが部屋から出て行った9時に医院長のDr.Hwangが部屋に来た。今日は、私の後もずっと次から次へと手術を今まで続けていたらしい。午後4時には帰宅する米国の医者とは大違いだ。医院長は、
「MRIの結果は非常に良かったので、問題ないです」と説明してくれた。
「MRIを見てみますか?」と言われたが、まだ夕方の件で気分が悪かったので、「明日にします」と答えた。

チョウさんが部屋に帰って来て今夜は泊まっていってくれると言う。確かにさっきの様な事が起こらないとは限らないので、居てくれたら、いざと言う時に助かる。
今夜は日本とパラグアイのベスト8をかけたワールドカップサッカーが11時からある。
11時20分になってもNHKではサッカーが始まらない。チョウさんは「変だなあ」と言っている。
「多分もう少しでないでしょうか」と私が言うが、チョウさんは、携帯のインターネットか何かで調べて、「もう始まっていますよ」と言って、TVのチャンネルを回し始めた。
確かに始まっていた。サッカーは延長戦でも切りが着かず、PK合戦で日本は一人が失敗して負けた。残念だった。私は岡田監督のいつも苦虫を噛み潰したような顔が好きではない。日本のサッカー技能も良くはなっているのだろうけど、まだまだ、世界の№1には程遠い感じだと思う。チョウさんは、大きないびきをかいて、眠っていた。

6月30日(水) 退院

朝、チョウさんは、7時に起きて会社に出かけた。その後直ぐに朝食。あまり美味しくはないけど、食べないと元気が出ないので食べた。Haさんが来て、「今日はどうするのですか」と聞く。
私は「今日午後に退院したいと思っています」と答えた。
Haさんは、「Wooridul病院の宣伝に協力してくれますか」と聞いた。
私は、「良いですよ。」と言ったものの、ビデオカメラが来たので、「ちょっと、それはー」
とは思ったが、Haさんの依頼なので、やる事にした。
1分程度の私の体験を話した。終って、Haさんとカメラマンは部屋を出て行った。

どうやら、健康保険の利く韓国人を治療するより、現金ですぐに支払いをしてくれる外国人、特に、韓国にすぐ近くで比較的豊かな国、日本をターゲットにして居る事は明快だった。
「道理で、全てにおいて、私のここでの待遇は最高だった訳だ」と思った。

少し経って、Haさんが迎えに来て、医院長がMRIの結果を説明してくれるというので、Haさんと一緒に医院長の部屋に出かけた。
医院長は、
「痛い場所は無いですか?」と聞いた。
私は、
「痛い所は殆ど無いですが、左の人さび指の先端がまだ少しだけ麻痺している感じがあります」と言った。
医院長は、
「それは、挿入したリガメントが4週間くらいで縮まると治りますと説明してくれた。
私は、「どうして、私のヘルニアは左側だったのに右側からアプローチしたのですか?」と聞いた。
医院長は、
「それは、左側からアプローチすると、喉があって上手く問題箇所にアクセスできないので右側から手術をしたのです。」
と言って、背骨の模型を示して、方向を教えてくれた。
「ああ、それで、Discの中を針が通過したのですね。その為にハンマーで叩くような事をやった訳ですか?」
と言ったら、医院長は笑って、
「そうですよ」と答えた。それと、
「手術の途中で何か液のような物を注入したように思えたが何なのだったのか?」
医院長は、「後で、またヘルニアが飛び出してこない様にリガメントを注入したのです」と言っていた。
そう言えば、そんな記事をinternetで読んだ事があったと思う。
私は「大変有難うございました。」と言って医院長の部屋を出た。

自分の部屋に居るとチョウさんが11時半ごろ来た。支払いの準備が出来たというので、会計の所に出かけた。
会計は、9,450,220ウォン。
約8000ドル。
Citi BankのDebitカードで払った。
部屋に戻ってinternetで確認をすると、7,853.26ドルが引き落とされていた。
決して安くは無いけど、早く仕事に戻れれば、その分で回収できるのだから、3ヶ月回復の手術より正解だと思う。

荷物を纏めて帰る用意をしていると、昼ごはんが来た。ちょっと見たけど、あまり食欲がわかなかった。

「チョウさん、行きましょうか?」と言うと、
「外で何か美味しい物を食べましょう」と言ってくれた。
Haさんと2人の看護婦が見送りに来た。
看護婦は「言葉が上手く通じなくて、申し訳ありませんでした」とHaさんの通訳で言った。
私は、「大丈夫でしたよ。問題ありません。色々と有難うございました」と言って部屋を出た。
Haさんが荷物を持ってエレベーターの下まで来てくれた。
1階のエレベーターでHaさんと握手をして別れた。
先週金曜日に病院に初めて来てから、退院するまでずっとHaさんに面倒を見て貰って、助かった。

玄関から入ってくる久しぶりの直接日差しが眩しかった。


keikeiさんの手術前と手術後のMRI


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