GANさんの闘病記 /頚椎椎間板ヘルニア-骨棘、手術(ラブ法)/2か月後に再手術(プレート固定)

腰椎椎間板ヘルニア 骨棘
2004年8月手術(ラブ法) 同年10月再手術(プレート固定)30代前半 男性



■ 2006年4月現在

私は2006年4月現在、埼玉県在住の男性です。
体系的には中背・小太りな体型で幼少から現在まで「動けるデブ」として活動しています。
運動は幼少の頃、水泳をやっていて、その後、バレーボールをやるようになって両運動を現在も続けています。
それでは私の闘病記をお話しします。

■ 198X年1月

中学での部活動も一段落し、受験勉強(遅すぎるかな)をしていたところ突然腰が痛くなり親に相談したところ、「勉強がしたくないからそういうことを言う」って言われたのを覚えている。
近くのA整形外科に行ったところ腰椎椎間板ヘルニアと診断。
医師>「まだ若いから日々の生活で治るでしょう」と言われ、高校入学までリハビリ通院(牽引と音波)をたまに行った。
ここから闘病生活が始まった。
それ以後、2004年7月まで軽い痛み(たまに激痛、年寄りみたいに天気予報ができた)があったが、仲良く生活を送っていた。

■ 2004年 症状悪化

<6月>
仕事の都合上、製造現場からデスクワークに仕事の内容が変更となった。
10日ぐらいした時、腰痛が出てきて歩行が困難になった。
しかも今回は痛みが以前に比べひどいがお昼ぐらいになるとなくなってしまうおかしな物であった。
近くのK整形外科に行ったところ、やはり「腰椎椎間板ヘルニア L5−S」と診断されたが、
医師>「この程度ですと要観察・リハビリですね」と言われ通院することになった。
しかしながら次に起こる突然症状が発症するまでの間、通院したのは一回だけであった。(カウントダウン開始!)

<7月2日>
朝起床して腰の痛みを感じないと思い、すっきりした気持ちでベットより立ち上がろうとしたところ、左足に感覚がなく倒れ込んだ。至急K整形外科へ。
診断は「腰椎椎間板ヘルニア(L5−S)」と変わらず。しかも一ヶ月前にレントゲン撮影した状態と何ら変化がないとのこと。
しかし「要観察とされ牽引・音波治療・散歩1時間を行ってください」と言われて帰宅。
会社をこの日より休むことになった。(診断書1ヶ月)
その際別の大きい病院Hにてコルセットを作って頂いた。(診断もして頂いたが全く同じ、治療法も)
しかし、いつまでたっても左足の麻痺したような感覚は取れず、1時間の散歩も凄く怖かった。
そりゃそうだ、足が地についてる感覚がないんだから。そこで散歩1時間は自己判断で水中歩行に切り替えた(これが判断ミスか?)。そのまま2週間が過ぎた。

<7月20日>
牽引・音波治療・散歩の効果なく逆に痛みを伴うことが増えたので大きい病院Zを紹介される。
そこでも「ヘルニアとしては大したことない」と診断は変わらなかった。
先生にしつこく相談(診断書が1ヶ月なので早く治してくれーって)したところ、更に診断書1ヶ月出して頂き“ブロック注射”という物をすることになった。この注射は少量しかしないくせに大きい物であった。(この病院はかな?)
また、針を刺されることは献血で慣れていた(半分マニア化)ので痛みはさほど感じなかった。液が入ってきた時は気分が悪くなり、その後「30分横になっていないといけない」とのことであったので横になっていると自然に眠くなっていたのを覚えている。
その後自宅まで自分で車を運転(オートマだから左足が効かなくても大丈夫と過信)して帰るのだが、
病院から自宅まで1時間、自宅についてゆっくりしている時間1時間、トータル2時間しか効かなかった。
1週間後医師に相談したところ「人によって効き方は違う」とのことでたとえ2時間(自由なのは1時間)でも痛みがないことに感謝し、もう1度ブロック注射を行った。(牽引・音波治療・水中歩行は継続中)

<8月2日>
3回目の通院日、大きい病院Zの医師に“病状に変化はない”との事をつげたら
医師>「おかしいな〜、そんなに大きいヘルニアじゃないんだけど、“演技してない?〔ぼそっと聞こえないように(実際聞こえた)〕”」と言われ、
“逆ギレか!”と思い反撃!
自分>「診断治療が間違っていないか!腕は飾りか!」と言ってしまった。(帰宅時反省)
あきらめたのか更に専門の医者がいる病院Gを紹介された。

<8月9日>
そこは病院名が“専門です”って言わんばかりのものであった。(しかも予約制・それだけで緊張)
そこでも大したことないと診断されたが、更に細かい検査MRI・CT、(他の病院ではやってもらえなかった)を行ってくれた。
その結果大きいのではなく、マイナスドライバーの様な感じで椎間板が変形して出ているとのこと(判断難しいと先生弁)。
更に行っていた“散歩”はやってはいけないと“安静”言われた(水中歩行なんてもってのほか(- -:)
T医師>「手術する?それとも3ヶ月診断出すから安静にしている?」との質問に
自分>「3ヶ月安静にしていたら治りますか?」と質問。
T医師>「可能性はある、安静にしていれば。手術は治る確率が高いけど手術の際神経をさわるし、後遺症が出るかも術痕は残るし、その後のリハビリはきついよ。再発率10%程度あるし・・・」
   (いろいろと隠さずに説明して頂いた、それによって先生を信頼することが出来た)
自分>「手術する予定で予約入れます。何時出来ますか?」
T医師>「前の患者がキャンセルしたから26日、急ぎになるけど大丈夫?」
自分>「か・家族を説得します」
T医師>「じゃ〜手術の説明するね、君の場合はラブ法というもので、変形している部分を取り除く方法だよ。手術時間は長くて2時間、あっという間だよ。全身麻酔で寝ているし。」
自分>「ぜ・全身麻酔ですか?」
T医師>「そうだよ、私たちだって神経さわっているのに見られていたらイヤだよ。
    だけど手術中は下向いているから見えないけどね〔笑〕」
自分>「分かりました」
T医師>「あと、ミエロって言うのをやってもらわなければならないんだけど。
    そうだな(先生がスケジュールチェック)明日でいいかな?その際、手術するか決定して。」
自分>「え・明日ですか」
T医師>「説得するって言ったじゃない。分かった3日後にしよう。」
自分>「分かりました、で“ミエロ”って何ですか?」
T医師>「神経に造影剤を入れて確認するんだ。ちょっと痛くて人によっては気持ち悪くなったり平気な人もいるよ。」
自分>「分かりました。先生面白いけど、怖くなってきた。」
T医師>「君がすぐに手術決定したからすべて一気に説明してるだけ、みんなそうだよ。」
その後、運良くコルセットを製作する人がたまたま訪れたので、また新たにコルセットを製作した。

■ ミエロ

<8月9日>
家族の承諾を得てミエロ撮影。その場所は病院Gではなく人里離れた山の中腹、病院H
妻が手術について先生に聞きたいとのことからミエロ前に術前説明となり、前回話されたことを説明していた。
T医師から妻は説明を聞いて半分ずつ安心と不安を抱えて帰っていった。
自分はパンツ一丁になってから看護婦さんに病衣を頂きミエロへ。
病衣を脱いで機械の上に寝ているとTVで見る手術の格好をした先生が現れた。(緊張!)
“楽にして”って言われるけど力が入る。
医師>「これじゃ出来ないよ(ため息が聞こえた)」と言われた時、自分の力が抜けた一瞬に“プスッ”って針が刺さった。(うまい!けど痛い)
その後は目の前に置いてある画面に針が刺さっていくのが見えた。そして神経に達した時、全身に電気が走った感じがし、先生も“よしっ”って言っていた。
その後先生が針をふるわせ“ピリピリくる?”って聞かれたので“ビリビリ来ますからもうやめて”って返したら笑っていた(先生はSか!)
いよいよ造影剤が注入された。入ってきた瞬間気持ち悪いが後は慣れか?それともヘルニアのせいで造影剤が足の方まで入らないからか?ただその映像を見ていることに気分が悪くなった。
1時間ぐらいで終了。帰りはストレッチャー(初体験)で病室へ。1泊入院でした。
婦長さんがしつこく見回ってきて“動かないで寝ていて”って言われたのであきらめてTV(カードを看護士に買ってきてもらった)を見て寝ていた。
腰の調子がいいと感じ、医師に報告したら、「明日まで良かったら手術を取りやめてもいいよ」と言われた。だが、一晩病室のベットで過ごし、起きたらいつもと同じ状態になっていた。(腰激痛復活!足はビリビリ!)


■ 手術

<2004年8月26日>
手術(ラブ法)。山の中腹、病院H
手術2日前に入院し6人部屋の病室で皆さん術後だったのでいろいろと話を聞いた。(術前日のイベント=浣腸等)
そこで病室の人たちに言われたのが、自分はベットでの楽な姿勢は“うつぶせ”だが、他の人は“あおむけ(うつぶせになったらひっくり返れない)”とのことでした。
医師に言ったところ「あなたは特異質なの!大体あんなヘルニアなんだから!」って自分のレントゲンを病室の人たちに見せていた。(病室の人たちもどこがヘルニアだか疑問に思うほど)
そしていよいよ手術。
午後であったので午前中に手術担当看護婦?の様な人がいろいろと麻酔のことなど説明にきた。また術後お世話になるリハビリ担当者が挨拶に来た。
その日は両親・妻が付き添ってきた。
隣ベットの人が“ご愁傷様”とふざけてくれたおかげでピクニックに行くような気持ちでストレッチャーに乗り手術室まで行った。(妻達は怒と心配そうな顔をしていた。)
手術室では“TVで見たようなところだ!”とウキウキ。余韻に浸っているまもなく“麻酔します”と言われ点滴に何か入れているって感じたらぶっ飛んでいった。以後記憶なし・・・あたりまえか。
手術後麻酔をさますため呼びかけていたら突然暴れて管を抜こうと暴れたらしい(記憶なし、あとで看護婦さんに大変だったと言われた)
ストレッチャーで病室(個室)へ運ばれ、病室で家族と会話をして疲れたらしく寝たらしい。(すべて記憶なし)次の日、妻に説明するとあきれていた。
そして気付いたのは前と後ろに管がついていて、1つは尿用。もう1つは血抜き用であった。
医師が訪れ「意外に背筋がしっかりしていて大変だった、ただのデブではなかったんだね。一応スポーツマンなんだ」と言っていた。

<2004年8月28日>
手術から2日後、初めの大部屋に戻った。
戻った瞬間前後の管を取り外した。(どちらも半分痛く、半分気持ち悪い)
そして離床!僅か5m歩いただけでめまいが・・・しかし早く復活してやる!とその日のうちに歩行器廊下を3往復ぐらいした。(こ・これが・・・)
リハビリの先生が訪れた時はすでに冷や汗と疲労で息切れしていた。
その後のリハビリは午前中先生の指導のもと行い、午後は自主トレ。(こ・これが・・・)
順調すぎるぐらい回復し、9月16日3週間で退院出来た。何故か2kg体重増。
退院後は、リハビリ先生の指示通りのリハビリをやっていれば良かったのだが、あまりにも退屈で倍量行っていた。(こ・これが・・・)

■退院後

9月16日退院してから徐々に体力が回復しているのを感じられ、会社の上司も見舞いに訪れてくれた。
その際、“来月から復帰します。”と言った一週間後・・・

<2004年9月27日>
起床時、7月2日と全く同じ状態になっていた。(なんでだー!)
すぐにG病院の担当医師に連絡(不在の為30日予約)。
その間の3日間は“ボルタレン座薬”で多少の痛みは回避していたが困惑・動揺・激痛等で訳が分からなくなっていた。(妻も同様)
病院Gでレントゲン・CT撮影後、診察となった。
待合室で一人(飛び込み診察だったので最後だった)で長いすに寝ていたらT医師ががっくりした感じで現れた。
診察室で写真を見ながら説明。再発でした。
リハビリのしすぎで汗や不純物がせっかく取り除いた場所にたまってしまった。また、取り除いた部位の椎間板が再度つぶれてちょっと出かかっていた。(手術後判明)
このままだと感染症や以前より動けなくなる可能性があったので、 再手術すぐに決定!
次の手術はプレート固定術(ラブ法は2回までで3回目はプレート固定だって説明を受けたので3回目はイヤだから)
手術までに再度ミエロを行い、今度は自己血を使う為毎週400mlずつ(合計1600ml)血を採られた。
(採血した後ブロックする?って聞かれたけど拒否)
採血する病院は山の中腹、病院Hでしたので訪れた際、看護婦さんや未だ入院している人たちに合ってしまい、“来月戻ってくるから”って説明した。(なんか悲しい)

■ 再手術

<2004年10月26日>
再手術(プレート固定術)山の中腹、病院H
2回目なので緊張もせず前日までのイベントも難なくこなした。
ただ先生は相変わらずがっかりしていて、リハビリの先生や手術担当看護婦はあきれて説明が雑だった。(説明より雑談に花が咲いた)
手術室に入り前回同様麻酔の先生に“麻酔します”と言われ点滴に何か入れているって見てたらぶっ飛んでいった。以後記憶なし・・・あたりまえか。
手術後麻酔をさますため呼びかけていたら前回同様また突然暴れて管を抜こうと暴れたらしい。
しかし前回のことがあって体はベットに固定されていたらしいです(記憶なし、あとで看護婦さんに大変だったと言われた)
先生は癒着が激しくて大変だったと言っていた。
ストレッチャーで病室(個室)へ運ばれ、病室で家族(今回は妹夫婦もいた)と会話をしていたら疲れたらしく寝たらしい。(すべて記憶なし)
また、今回は手術j時間が6時間(前回は2時間)もかかった為、肩に手術台の跡が残っていた(体重増加も影響?消えるまで3日かかった)

<2004年10月28日>
前回同様2日後、大部屋に移動(手術が立て込んでいて強制送還)となったが立ち上がることを許されなかった。
そのため下の大が我慢の限界に達し緊急対策。空いている個室に移動し窓全開!看護婦さんに処理して頂いた。(恥ずかしい)

<2004年10月29日>
いよいよ離床。2本の管を抜き取り終わった頃、1回目の手術の際知り合った人達が面会に来た。(みんなリハビリのしすぎに注意!と繰り返された)
今回、退院までの1ヶ月は実体験カウンセラーとして一緒の部屋に入ってきた患者をはじめ、男女問わず行った。〔実際体験した人の意見はいいと皆さん言ってくれた。自分の術例(2回)や手術後の状態・経過等〕
たまに手術を決める前の人が医師に紹介され訪れたこともあった。
自分はあまり話をするのが得意ではないが手術中待っている家族の方は自分の話を聞き、安心されていた事をきいて(看護婦より、または別の日に挨拶されたことも)役に立って良かったと思った。
退院の際は皆さんに見送って頂いた。言うことはみんな一緒で“戻ってくるなよ”。
また、なぜだか体重が4kg増であった。(一回目入院から6kg増)

■再退院後

<2004年12月1日>
会社出勤!復活!体重も元通り
多少の痛みが伴う(腰をかばうせいかぎこちない)が作業はこなせる程度まで復活したので社会復帰した。
その後は無理なリハビリも行わないように気をつけながら生活してはいるが、
手術した場所(L5−S)の上の部分もヘルニア(かなり軽度)なので、3度目の手術にならないように気をつけている。
“ダイエットしながらリハビリ&トレーニング”(−2kg成功=目標あと5kg)
現在は趣味であるバレーボールも選手として活躍?している。

■後述

以上が私の闘病記であるが、いろいろなサイトを見て感じたが、人によって痛みなどはかなり違うって事が分かった。

また、金銭面であるが、
1回目 約40万円(手術・入院21日)
まさか2回目があるとは思わず、退院時現金で支払い
自宅療養の際、会社と加入している健康保険に傷病手当金と高額医療費・付加金申請を行った。
2回目 約80万円(手術・入院30日)
高額医療費貸付制度というものを利用した。コルセットも申請できると知って追加請求した。
1回目同様、会社と加入している健康保険に傷病手当金と高額医療費・付加金申請を行った。
最終的には“お金を一銭も使わずに手術を終えた”と同じになった。“保険に加入していて良かった”


中学時代に腰椎椎間板ヘルニア発症。
2004年に悪化。歩行困難となる。手術をするも2ヵ月後に再発!再手術!
GANさんの体験を「みんなの闘病記」でご紹介いたしました。  管理者:楽楽

 
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