ツワブキさんの闘病日記(4)

後縦靭帯骨化症/手術(後方椎弓形成術) 入院〜リハビリ〜退院後

入院〜手術〜リハビリ〜退院後(回想2005年1月〜2006年2月) 日記記入日:2006年2月〜2006年6月 術後382日〜術後528日

 闘病日記(4)

 ▼ 2006年2月
  手術のため入院
  イノハナホテル
  手術前の一週間
  如月雑感
  兄の手術

 
 ▼ 2006年3月
  手術前あれこれ
  手術(後方椎弓形成術)
  手術後の一週間
  弥生日記抄

 
 ▼ 2006年4月
  手術後あれこれ
  お見舞い客
  病の達人
  卯月日記抄

 
 ▼ 2006年5月
  リハビリから退院へ
  久しぶりの外出
  退院後のこと
  五月日記抄

 
 ▼ 2006年6月
  サラバ愛しのジムニー
  梅雨の晴れま
  ビキニのパンツ
  水無月雑感



闘病日記(1)
  2005年2月〜5月

闘病日記(2)
  2005年6月〜9月

闘病日記(3)
  2005年10月〜
  2006年1月



みんなの闘病記

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▼ 2006年2月
  入院
02/03 (金)   退院後368日  術後382日
(2005年1月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 新年が明けた4日の日に、K先生から入院日を知らせる電話が入る。入院日は3日後の1月7日、術前検査が1週間、手術は1月17日との内容であった。
 翌5日に肝臓のエコー検査に病院に出かける。エコー後の診断は、予想したように脂肪肝だ。食生活と脂肪肝についてのレクチュアを受ける。脳神経内科に寄り18日に予約してあった排尿検査(ウロラボ)をキャンセルする。残尿検査をしてもらったが正常だった。先生より「手術の成功を祈っています,がんばってください」と励まされる。
(1月7日(金))入院〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 朝起きて外を見ると、入院日和のような快晴である。朝風呂にはいりながら、持参するものなどを頭の中で再チェックする。やはり忘れていたものがあった。手術承諾書などに捺印する印鑑である。あぶなく忘れるところだった。留守電にセット、ガスの元栓を止め電気系統をチェック、戸締まりをして用意万端ととのった。予定どおり頭に赤いバンダナを巻き、ジーパンにフィールドコート、バックパックを背負い家を出る。どう見たって旅人の格好だし,まさか入院とは気づかれまい。駅までの途中で、知り合いの奥さんたちに声をかけられた。無意識にヘロヘロ歩いていたのでドキッとする。
 「どこか旅行にでも行くの?」「はい、寒いので暖かい沖縄へでもと・・・」
 「いいわね〜、どのくらい行ってらっしゃるの?」「1月末ぐらいの予定です」
 「気をつけて行ってらっしゃい」「ありがとうございます、では」
 なんだか脚本どおリに展開しているようだ。駅に着き、首にソフトカラーをつけて杖を準備する。いつものようにキヨスクの壁に張り付いて四方八方に目をくばる。病院に入院する途中で四肢麻痺になったんじゃ悔いが残るからね。電車を降りてからも、出口にむかう人たちの最後尾からエスカレーターに乗る。とにかく病院行きのバスに乗るまでは、と緊張していたためか、バスに乗ったらダッタリしてしまった。
 病院に9時過ぎに到着。自販機で買ったドリップ珈琲を飲みながら、しばらく休憩する。入院の手続きをするために地下の入院受付事務所へ。手続き待ちの人たちが4人もいたので、ぼくの手続きが終わったのが10時。まあ、チェックインの時間としては妥当なところだろう。書類をもって七階の脳外科病棟へ。ナース,ステーションに書類を提出して、滞在する部屋をたずねると希望どおりの4人部屋で、これまた脚本どおりだ。
 婦長さんが部屋に案内してくれる。窓際のベットというわけにはいかなかったが、重病患者さんがいないと言うことなので、まずまずといったところだ。同室者にあいさつをして荷物を整理していると,ぼくの担当の看護婦Kちゃんが病衣を用意してくれたり、手首に名前や血液型を記した白い認識票を巻いてくれた。これで完璧に入院患者だ。
 そのあと、非常口やら洗面所、浴室や食堂などの諸設備を案内してもらった。検査が始まるまでの3日間は、ゆっくりと過ごしていいらしい。それだけ時間があれば心の準備もととのうのでありがたい。それにKちゃんは明るいし、冗談バチバチだから、楽しい滞在になりそうな予感がする。


  イノハナホテル(入院)
02/07 (火)

  退院後372日  術後386日
(2005年1月8日)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 チェックインから一夜が明ける。「みなさん、おはようございます」の放送で目がさめた。イノハナホテルの朝は、石蕗庵の朝とちがって、目ざめて吐く息が白いということもない。朝だから室温は日中よりも低いが20度もある。気持ちよく洗顔をすませて帰ってくると、看護婦さんが検温で〜すと入ってきた。血圧、体温、脈拍を測るのである。朝から若い女性に手を握られて、いや触れられて、はははは。パラダイスだ。
 ブラインドをあけて窓の外を見ると,遠くの山の上のほうが朝焼けで赤く染まっている。とても美しい眺めだ。それにくらべりゃ、石蕗庵の雨戸をあけて見えるのは、前の家の台所の窓ぐらいのものだから、えらい違いである。南国のホテルに滞在していると思っても違和感はない。ちょっと海が見えないのが残念なところだ。この部屋はさしずめドミトリーといったところだろうか。
 同室のみなさん、それぞれ手術前だから元気だ。窓際のおふたりは硬膜下出血の血抜きの手術、ぼくの向かいのベッドのOさんは脳腫瘍の摘出手術をするとのことである。
 Oさんを初めて見たときに、ぼくは驚いてしまった。20代のころ同じアパートで暮らしていた、絵の先輩Kさんに、あまりにも似ていたからである。話し方のイントネーションも似ているし、しぐさもそっくりである。Kさんは青森の出身だが、Oさんは北海道の出身とのことである。世の中には似ている人は何人かはいると聞くが、とにかくビックリしてしまった。すぐに意気投合し,つれだって食堂に出かける。
 朝の食堂からは雪化粧の富士山がくっきりと見える。ここでバイキングの朝食といきたいところだが、自分の名前を言って、名札の付いた朝食を受けとる。どうも見える景色とは格差のある食事である。Oさんは家で食べている半分の量だと、ため息をついている。ご飯がおにぎり1個ぐらいのもの。脚本を少し訂正しなければならないようだ。南国のホテルに滞在しながら「ダイエットにも挑戦してみる」というのも悪くはない。
 部屋にもどると、となりの女性部屋がにぎやか。まるで修学旅行のようで楽しそうだ。気になったので覗いてみると、元気のいいおばちゃんが若い患者さんたちを笑わせている。これは入院なれしているベテランではと、お話を伺うと、やはり数ヶ月ずつ何回も入院している先達であった。ともすれば暗くなりがちな入院生活に笑いをとの配慮が見える。ゆかいなおばちゃんで、ぼくも大いに笑わせていただいた。
 ランチとディナーもダイエット食である。これに不満はないのだが、どうも味が曖昧なのだ。関西風のうす味ともちがうし、表現するのはむずかしい。まあ、素材を活かした味覚と言えなくもないし、これが究極の健康食なのかもしれないな。
 イノハナホテルは朝もはやいが、寝るのもはやい。午後9時が消灯である。たぶん、そうだろうと思って準備はしてきた。シカゴ在住のデービット、ターキントンさんの四国遍路日記をHPからプリントしたものを持参したのである。消灯20分前にこれを読みだすと、9時ごろには瞼が重くなり意識が遠のいてくる。ぼくは英語が大の苦手だから、夜に英文を読むと必ず睡魔がおそってくるのだ。予想したように爆睡。


  手術前の一週間
02/16 (木)

    退院後381日  術後395日
(2005年1月10日(月))〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 入院4日目、検査予定なし。午前中に売店で買い物。手術で使うT字帯、握力訓練に使うゴムボール、テッシュ、ストロー,一回分ずつパックされた洗剤,耳栓とアイマスク、洗面器などを購入。午後から同室のみなさんと、お互いの闘病体験を語り合う。一人暮らしだから賑やかな生活が刺激的で、アッという間に4日間が過ぎてしまった。

(1月11日(火))〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 朝起きて検尿。一階の中央採血室で、血糖などの検査用採血手術時の輸血用の採血をする。午後、リハビリ科を受診。問診と触覚検査の後、術前と術後のリハビリテーションについて説明を受ける。手術前は、手足の動作把握とストレッチ体操の習得、車椅子の練習など。術後は、理学療法による左足の筋力訓練と歩行訓練。左手は作業療法による巧緻運動訓練などである。次に胸部レントゲンを撮ってから呼吸器内科を受診する。最後に心電図の測定をして予定の検査が終わった。

(1月12日(水))〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 午前、腰部のレントゲン撮影。作業療法リハビリ。触覚検査、握力検査をする。握力は左手が8で右手が24。左手の巧緻運動は、各種の器具を使って測定した。午後、理学療法リハビリ。術後にベット上で行うストレッチ体操を習う。そのあと訓練コースを歩きながら歩行状態、片足立ちなどのチェックを受ける。

(1月13日(木))〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 尿量検査(朝から翌朝まで)午前、作業リハビリ。午後、理学療法リハビリ。歩行訓練の後に車椅子の練習。病室で担当のKちゃんから、寝たままでの歯磨き、寝返り方法、砂袋と枕の使い方、電動ベットの角度調整などの手ほどきを受ける。術後は身動き出来ないだろうから、手の届く範囲に置くものを再チェックする。

(1月14日(金))〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 午前、作業リハビリ。午後から外出許可をもらい、珈琲を飲みに出かける。

(1月15日(土)〜16日(日)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 病院休日。他の病室を訪問、みなさんの闘病体験を聞かせてもらう。
16日の夕食後からインフォームド、コンセント。主治医のK先生と入院担当のM先生から、手術についての詳しい説明を受ける。手術承諾書、輸血承諾書にサインと捺印。麻酔担当医より「麻酔をお受けになる方のために」の冊子をもらい、その内容について説明を受け承諾書にサイン。いよいよ明日手術だが、手術に対する不安はない。むしろ、これで四肢麻痺の恐怖から開放されるな。との安堵感の方が強かった。 


  如月雑感
02/22 (水)

  退院後387日  術後401日
花粉症
 今月の中旬あたりから目の調子がおかしくなった。昨年の夏にはドライアイになり、目薬を差さないとパサパサして耐えられなかった。今度はその反対で、悲しくもないのに涙が出てきて止まらない。パソコンのディスプレイを見ていると、5分で目がぐしゃぐしゃになり、かすんで見えなくなってくる。これじゃ当分は闘病記の更新は無理のようだ。とにかく目が痒くて仕方がない。それに鼻もグズグズ。これは典型的な花粉症の症状である。知人によれば花粉症専用メガネか水泳用のゴーグルがいいとのこと。そのうち試してみよう。サルは花粉症になると、やたら人に噛みつくらしい。マスクやメガネを使えないから同情してしまう。ぼくだって、そばに誰かいれば噛みつきたい心境だからね。

シマトラ
 濡れ縁でシマトラが日向ぼっこをしていた。久しぶりだから声をかけると,振り向いた顔を見て驚いてしまった。なんと顔中が傷だらけである。鼻の右あたりが深手で、左目も半分ほどはふさがっている。ふだんでも男ぶりはよくないが、ひどい顔になったものだ。相手はこのところ姿を見せないバットマンだな。たぶん、メス猫をめぐっての決闘でもしたのだろう。負傷したとはいえシマトラは大したものだ。ぼくは異性をめぐって決闘したこともないから尊敬してしまう。それに、ぼくは何もしないのに両目が半開きだから、シマトラよりは惨めだ。ははは。シマトラに乾杯!。

神経症状の変化
 昨年の1月に椎弓形成の手術を受けてから、1年と1ヶ月が過ぎた。この間の神経症状の第1波(梅雨期前)と第2波(冬期)は、何ともつらいものであった。左手のしびれや左足の違和感に加え、首の左後方の痛み、左背中の圧迫感と痛み、左肩の強いコリの三点セットが追い打ちをかけてくる。低気圧が接近すると、神経症状は呼応するように暴れだす。こんな時の痛みに対する対処法なのだが。ぼくの場合は、エレキバンと鎮痛消炎の外用薬を貼るだけである。
 微妙な脊髄だから収まるところに収まるには、それ相応の時間が必要だろう。神経症状が出るのが当たり前と考えれば、ジタバタしても仕方がない。薬を処方してもらっても、せいぜいが胃を荒らす程度のものだろうから、薬は飲まないことにしている。ポジティブに過ごすのが一番の薬だと思っているからだ。
 中旬過ぎから、少しずつ体調に変化が出てきた。左手のしびれや左足の違和感は変化は感じられないが、首や肩と背中の症状が薄皮を剥ぐように少しずつ軽くなってきたのである。低気圧の接近でも、以前のようにワオ〜と吠えるような疼きはない。多少の重苦しさは感じるものの、かなり楽になってきた。あとは左手のしびれと左足の違和感だが、これも年単位の回復になるだろうなと思っている。まあ、ひとすじ縄ではいかないだろう。ひどい花粉症にはなるし、まだまだ修行は続きそうだ。


  兄の手術(顕微鏡下 脊柱管を拡大)
02/28 (火)

   退院後393日  術後407日
 2月20日に兄が腰の手術をした。昨年の2月28日にも頸椎の手術をしている。ぼくと同じ後方からの椎弓形成術の手術である。頸椎の術前検査で腰部脊柱管狭窄症もあるため、いずれは腰の手術も,と言われていた。昨年の夏を過ぎたあたりから、ヘソ下から両足にかけて痺れてふわふわした状態になったらしい。それと、両足裏が中央部分以外はあまり感覚もなく、やがて靴が脱げたのも分からなくなって、手術を決断したとのことだった。

 今度の手術もK先生の執刀である。脊髄の他の手術にくらべれば、頸椎や腰の手術はそんなに難しい手術ではないとのこと。靱帯が石灰化して脊髄圧迫している3箇所を、顕微鏡下で削り取る拡大開窓術。手術は予定の時間で終わり、処置用の個室に入った。先生から手術の経緯について説明があり、手術は成功、開窓術は患者への負担も軽いので2週間ぐらいで退院できるでしょうとの話である。義姉、弟と処置室に行くと兄は麻酔から覚めていて、具合はどうかと聞くと,昨年よりかなり楽だと言っていた。

 昨年の頸椎の手術では脊髄に癒着があり、その剥離手術の影響で術後はかなり痛かったらしい。とにかく、退院するまで「ぼくに騙された」と言っていたから、かなり辛かったのだろう。それは、ぼくの手術後の様子を見てから手術を決断したからだ。でも兄の場合は退院してからは、ぼくのような首の痛み,肩コリ,背中の圧迫感や痛みは出なく、右手のしびれだけだった。ぼくは退院までは痛みもなく、すこぶる順調だった。が、退院後に神経症状の第1波、2波に襲われて痛い思いをしている。このことから考えると、術後の神経症状の出方は2タイプありそうだ。

 これで兄弟で、首と腰の両方を手術したことになる。僕ら兄弟のように生まれつき脊柱管が狭いと、頸椎、胸椎,腰椎のわずかな変化(ヘルニア、骨棘、靱帯などの肥厚や変性)で脊髄症状が出てくる可能性が大である。これは、かなりのハンデである。頸部と腰部の両方を手術する確率は、たぶん、普通の脊柱管の人よりは多いだろう。

 きょうは兄の見舞いに病院に出かけた。このところ花粉症でグシャグシャだから、サングラスとマスクの怪しい姿で家を出る。電車に乗ると、ぼくと同じような格好をした人たちもいるから、あまり目立たなくてありがたい。と言っても、ほとんどが女性なのだが。
 病室にいないので探すと、洗濯しながら車椅子で本を読んでいた。手術後は腰から膝あたりまで感覚が戻ってきたし、足裏もかなり感覚が戻っているとのこと。洗濯が終わってから、地下の患者ラウンジで珈琲を飲みながら、しばらく話し込む。回復も順調なので、週末には退院できるらしい。ぼくが腰の手術したときには6ケ月も入院していた。それも手術の成功は50%と言われていた時代である。現在では医療技術の進歩で、患者の負担も軽く早期退院できるし、腰の手術もポピュラーになったものだ。


▼ 2006年3月
  術前あれこれ
03/10 (金)

   退院後403日  術後417日
(2005年1月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
体力維持
 入院から手術までの間に体力が低下するのが、いちばんの心配事だった。だいたい手術前なのに10日もベットに寝てりゃ体が弱ってしまう。寝るのは術後からでいいだろう。体力維持の対策として朝、昼,夜に七階から一階まで階段を使い、自動販売機のドリップ珈琲を飲みに行く。階段はすいているし手すりもあるので安全である。三階にある売店での買い物や、雑誌の立ち読みなどにも、ヘロヘロ状態ながらも階段を使って足腰を鍛えていた。このことを隣の病室のおばちゃんに自慢したら,「あたしゃ一階から最上階までで鍛えているよ」と笑われてしまった。さすが先達、おばちゃんにはかなわない。

病い祓い
 今までも何かあると必ず病い祓いの儀式をしていた。と言っても、別に大したことをするわけでもない。就寝前の数分間、自分の細胞たちに語りかけるだけである。自己治癒に携わる細胞たちに「非常事態だから総動員でお願いします」ってね。入院してからは、毎晩「手術の傷は痛くならないように,ついでに傷跡もきれいにお願いします」と自分の細胞たちに、虫のいいお願いをしていた。まあ、自己暗示のようなものである。

付き添い
 「手術の当日の夜だけは、身内の方に付き添いをお願いしています」と言う婦長さんの言葉を聞いて困ってしまった。ぼくは一人暮らしだし,兄や弟の嫁さんに頼むわけにもいかない。付き添いと言ったって、手術当日はやってもらうこともないので、あまり必要とも思われない。でも、そうゆう決まりであれば何とか考えるしかない。
 電話帳で付添婦さんを派遣してくれる会社を調べ、数社の広告を売店でコピーして検討することにした。手術3日前に婦長さんから,身内の方の付き添いがいなくて付添婦さんを頼むようなら、こちらで対応するので心配しなくていいと言ってくれた。この一言で気持ちが楽になった。こんな時には独り身はこまるなぁ、と痛感する。

セレモニー
 インフォームド、コンセント。本来なら身内の人たち数人がいる中で行われるのであろうが,ぼく一人でお願いした。患者本人だけというのは、あまり例がないのかもしれないな。そんなわけで手術承諾書のサインと捺印は、ぼくだけのもので了承してもらう。手術当日は、手術の経緯について説明があるので兄と弟に来てもらうことにした。
 手術が朝一番の場合、たいていは前夜に浣腸の儀式がある。腰のヘルニア手術のときには、歩くのもヘロヘロだったからトイレの往復だけでまいってしまった。今回も覚悟していたが、浣腸の指示はなかった。ありがたくも漢方薬系のアローゼン1袋を飲んだだけである。ラッキー。


  手術(椎弓形成術)
03/15 (水)

  退院後408日  術後422日
(2005年1月17日)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 手術の当日を迎えたが、いつもの朝とまったく変わりがない。手術日という緊張感がまったくないのだ。浣腸などという儀式がなかったせいかもしれない。朝食が食べられないのと珈琲が飲めないので、きょうが手術日なんだと実感する程度のものである。
 8時頃トイレをすませ、手術用の病衣に着替える。T字帯(フンドシ)を締め、血腫(エコノミー症候群)防止用のストッキングをはく。男だからストッキングをはくと妙な気持ちになってくる。こんなときに、例の音楽が流れてくりゃ、ははは。「チョッとだけよ」の仕草をしたくなってしまうな。そんなことを思い浮かべながらニヤニヤしていたら、看護婦のKちゃんが怪訝な顔をしていた。こんな昔ギャグは口には出せない。
 9時過ぎに、麻酔を効きやすくするための注射を肩に打つ。これはけっこう痛かった。点滴をつけてストレッチャーに乗り、同室のみなさんに見送られ手術室へ向かう。寝ながら移動するというのは不思議な感覚だ。エレベーターから降りて手術室に向かう廊下のところで、Kちゃんが「がんばってね」と言って手を振ってくれた。ここからは手術室の看護婦さんにバトンタッチされる。
 手術室に入った。ぼくの予定では、手術室の雰囲気とか先生たちの動きや会話などを、しっかりと記憶しておこうと思っていた。だが、注射のせいか点滴のせいなのか分からないが、手術用のライトを目にしたとたん、だらしなくも、あっさり気絶してしまった。

 名前を呼ばれる声で目が覚める。見慣れぬ部屋だ。しばらく自分がどこにいるのか混乱していた。やがて意識がハッキリしてくると、兄や弟、同室のOさんや先生、看護婦のKちゃんがいるのを確認できた。Kちゃんが「お名前は?」「ここはどこ?」と聞くのでスラスラ答える。それを確認した先生は「手術は成功ですよ、手は動きますか,足は?」とたずねる。確認して返事をすると安心したように頷き、あとで顔を出すからと部屋を出ていかれた。Oさんが退室し、やがて兄や弟も帰った。もう大丈夫だからと帰ってもらったのである。
 午後8時頃、酸素のマスクが外れたので楽になる。不思議なことに本当に手術をしたのか疑うほどに痛くない。顔の両サイドに砂袋があるのと、体のあちこちにコードや管がつながっているので、手術をやったんだと実感できる。しばらくしてK先生が「どうですか〜?」と笑顔で入ってきた。先生の笑顔にはいつも癒されているが、これも治療だな。
 うとうとすると、自動血圧計に腕をシュパシュパと締め付けられて目が覚める。30分間隔のまどろみの繰り返し。安眠妨害だ〜と、うらめしくなってくる。夜中に何度もKちゃんが顔を出してくれた。そのときの会話はかなり曖昧で断片的にしか覚えていない。

「ここはどこ?」「イノハナホテル723」「あら個室の720よ」シュパシュパ。
「Kちゃんかわいいな〜」「エ〜熱があるんじゃないの?」
シュパシュパ。「お名前は?」「ぼくは誰?』夢うつつの会話。職務に忠実な血圧計の音。
術後の夜の不確かな記憶。「お名前は?」「ここはどこ?」


 手術後の一週間
03/22 (水)

  退院後415日  術後429日
(2005年1月18日)(火)術後1日目〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 寝不足の一夜が明けた。あいかわらず手術傷は痛くない。採血後にベットごと地下まで移動してCT撮影。撮影後に、処置個室から元の病室に戻る。今朝から手術を受けているOさんが入室するからである。プチ断食のわりに食欲はない。昼食のおにぎりとおかずを少し食べる。午後、K先生が来室。CT画像を手にしながら「手術結果は順調ですよ」と説明してくれた。

(1月19日(水)) 術後2日目〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 理学療法士のS先生が来室。ベットの上でストレッチをしてもらう。美人でステキな先生の体温を感じながら、ぼくは胸をドキドキさせていた。術後2日目だというのに、手術も悪くないなぁ。などと馬鹿なことを考えていたのである。ぼ、ぼくは、いけない患者だ。
 午後、傷口の消毒。手術傷はまだ痛さを感じない。あらかじめ計画していたように、食事は昨日から半分だけにしている。だいたいベットで排泄するなんて,ぼくの美学に反する行為である。だから、自分でトイレに行けるまではと食べる量を調整していた。

(1月20日(木)) 術後3日目〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 午前中に待望の尿カテーテルが外れる。抜いた後が少し痛い。ソフトカラーを着けて起き上がるが、自分の頭の重さに驚く。看護婦さんに見守られて車椅子でトイレへ。午後,血抜きドレンを外し縫合する。頭を固定したボルトの痕がチクチクして痛い。夕食から通常の献立になり、トイレの心配もないから完食。自分の目で見ながらの食事、この当たり前のことが妙にうれしい。

(1月21日(金)) 術後4日目〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 点滴台につかまり歩いてトイレへ。歩行器などより歩きやすい。まだ頭は重いし、肩コリも増したようだ。ついでに処置個室にいるOさんを見舞う。手術に9時間もかかったのに元気だった。午後、食堂まで遠征して術後はじめての珈琲を飲む。病室に戻ると、担当看護婦のKちゃんが足を洗ってくれた。足湯は気持ちがいい。感謝。感謝。

(1月22日(土)〜23日(日))術後5日〜6日〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 Oさんが戻ってきた。これで同室者全員が手術を終えて、退院を待つだけになった。全員がカーテンを開け放ち、それぞれの手術体験を披露し合う。休日の病院は静かだが、隣の女性部屋は賑やかで笑い声も聞えてくる。またおばちゃんが盛り上げているらしい。肩コリが酷い。

(1月24日(月)) 術後7日目〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 朝起きて検尿。午前、看護婦さんと車椅子で採血室CT、レントゲン撮影へ。昨日より肩コリはだいぶ楽になっている。午後、手術部とドレン部の抜糸をする。K先生からCTやレントゲンの結果も順調なので、明日からリハビリをやりましょうと指示を受ける。術後から看護婦さんたちに体を拭いてもらっていたが、許可が出たので久しぶりにシャワーを浴びてスッキリ。ついでに鏡で確認すると、首のファスナー(傷口)もきれいに仕上がっていた。


  弥生日記抄
03/31 (金)

  退院後424日  術後438日
(3月4日(土)) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 友人ガモさんの個展を観に鎌倉まで出かける。陽光はやわらかいが、風は刺すような冷さだ。寒さで左足の筋肉が萎縮するのか歩きづらい。冬支度で電車に乗ったが暖房が効いていて快適な坐り心地である。それに乗り換えなしで坐っていけるし,自宅の部屋にいるよりはよほど暖かい。ははは。石蕗庵は寒いからね〜。花粉症だから新聞などが読めないので車中ではほとんど眠っていた。
 個展会場の鎌倉ワイン館ギャラリーは、鎌倉駅西口から歩いて数分、横山隆一記念館の少し先にある。今回のガモさんの作品はワインラベルの原画と、ワインボトルに貼り込んだオリジナルラベルの展開である。酒を飲まないガモさんの発想が面白い。ガモさん、オーナーで写真作家でもある遠藤年勇さんと、久しぶりの再会で楽しいお喋り。午後7時からワインパーティだったが、花粉症だし寒くなると体調が心配なので、陽のあるうちに失礼して帰宅する。

(3月14日(火)) 晴れ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 暖かい春日和である。散歩でもと花粉対策の完全武装で家を出ると、家の前でノラ猫バットマンと出会う。しばらく姿を見かけなかったが、どうも様子がおかしい。ぼくと目を合わせるのを避けるように,下を向いたまま通り過ぎる。アリャリャ,いつもの彼らしくない。足を痛めているのかビッコを引いている。よく見ると、うしろの右股のあたりに噛み傷が数箇所ある。たぶん、シマトラとの決闘で噛まれたのだろう。宿命のライバルだな。「ガンバレよ〜」と声をかけたが完全に無視されてしまった。なんだか性格まで変わってしまったようだ。

(3月22日(水)) 雨〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 朝から雨が降っていて薄ら寒い。先週、かなり暖かかったのでストーブやコタツなどの暖房器具を片付けたら,とたんに寒さが戻ってきてしまった。といって、また引っ張りだす元気はない。寒いからラジオを聞きながら終日ベットの中で過ごす。片付けなかった電気敷き毛布が暖かい。夕方に義姉から電話がかかる。5日に退院した兄は、もう車であちこち出かけているらしい。どうやら順調に回復しているようだ。主治医のK先生が4月から鴨川の病院に移動になるので、来月の検診は鴨川の病院とのこと。ドライブがてら一緒に出かけると、嬉しそうな声だった。

(3月30日(木)) 晴れ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 不気味な春嵐が吹き荒れている。こんな日には外に出る気分にはならない。と、何だかんだと理由をつけては、リハビリウオークをさぼっている。この5ケ月はほとんど部屋の中で過ごしていることの方が多い。そのせいか、少し歩いただけで息切れはするし,ちょっとした寒さで左足の筋肉がコワバリ歩きがあやしくなる。典型的な運動不足による悪循環である。これは、ぼくの意志の弱さもあるが、この冬の厳しかった寒さのせいなのだ。とにかく寒さで、身も心もすっかり萎えてしまった。来月には少しは暖かくなるだろう。リハビリウオークを再開して、この悪循環からサヨナラだ。早くもとの体に戻りたい。


▼ 2006年4月
  術後あれこれ
04/06 (木)

  退院後430日  術後444日
(2005年1月) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
手術傷の痛み
 頸椎4箇所の拡大工事だから、術後の痛さはそれなりに覚悟していたが,手術傷の痛みはほとんど感じなかった。術後の採血の方がよほど痛かったほどである。なぜ痛くなかったのか。これは、自己暗示、点滴の薬,手術方法などがうまく作用した結果ではないかと思っている。
 若い頃に腰のヘルニア手術をした。手術から3週間ほどしたある日,年配の婦長さんがぼくの耳元で囁いた。薬は両刃の剣、必要以上に飲むと副作用があるから,あまり飲まないように。それに細胞が怠けるからね。と言ってくれた。それ以来,漢方薬系の薬は飲むが,そのほかの薬りはほとんど飲んでいない。だから、手術中,術後の点滴などが、もろに効いてしまったのかもしれない。
 手術方法は、K先生が数年前から行っている筋肉を温存した椎弓形成術である。頸部筋肉群を剥がさない方法なので負担が軽かったのだろう。もちろん先生の技術によることは言うまでもない。

頭の重さと肩コリ
 人間の頭がこれほど重いものだったとは。手術後3日目にソフトカラーをつけて起き上がったときに、その重さには驚いてしまった。思わず両手で頭を支えたほどである。普段なら頸椎とそれを取り巻く靱帯や筋肉でしっかりと頭を支えているから,あまりその重さを感じないのだろう。だが手術後だからストレートに頭の重さが肩にくる。経験のない重さに肩が悲鳴をあげた。この肩コリのピークは手術後6日目で、それからだんだんと軽くなり、退院するときにはかなり楽になっていた。ちなみに退院後に襲ってきた神経症状の第1波(梅雨期前)、第2波(冬期)での強い肩コリは、術後6日目のピーク時の再現だった。

食事と飲み物(術後3日目の昼まで)
 術後1日目の昼食から食事が出た。3日目の昼食までの献立は、小さめのおにぎり2個,副食、汁物である。この間は寝たままなので、手鏡でそれらを確認しながら食べることになる。鏡を見ながら箸を使うのは難しいので、手巻き寿司用の海苔で一口ずつ包んで食べていた。これだと、こぼしてベットを汚すこともなく、手も汚れなくて食べやすい。
 飲み物用にフタの真ん中にストローがセットされたコップを持参したが、同室者の助言で,吸い口の曲げられるストローを売店で購入した。これは寝たままの期間はコップが洗えないので不衛生。ストローならボトルに差し込んで飲めるし、一回ずつ使い捨てで衛生的だと聞いたからである。使ってみると実に具合がいい。特に点滴の期間は水分を多量に摂取する必要から、ペットボトルのミネラル水やお茶をたくさん飲むからである。ペットボトルは寝たままなので、小タイプの方が扱いやすい。当然ながら吸い物や味噌汁なども、このストローを使用した。


  お見舞客
04/13 (木)

  退院後437日  術後451日
(2005年1月) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見舞客
 午後の面会時間になると,お見舞客が入れ替わりに次々と訪れてくる。それとなく聞いていると、身内や親戚、友人や会社関係、ご近所の人たちである。退院までには多くの方々のお見舞を受けるのであろうが大変そうだ。退院すれば、お見舞の返礼として快気祝いの品物を手配したり、礼状を書いたり、お礼の電話をかけたりしなければならないだろう。ぼくのような一人暮らしだと、そんな状況を考えただけでも気が滅入ってしまう。退院してからも後遺症などで当分は自分の始末だけで精一杯だろうから,そのような諸々のことは出来そうにない。だから兄弟以外には入院を知らせなかった。暖かい沖縄に出かけると吹聴していたから、当然ながら見舞客もなく、心静かに療養に専念できたのである。
 想定外だったのは、友人の俳人H君が顔を出したことだった。電話をかけても留守電、こりゃ何処かの病院に入院しているに違いない。あちこち電話をかけまくり、イノハナホテルを突き止めたらしい。長い付き合いだと、ぼくが何を考えているのか、それとなく分かるらしい。「水臭いなあ」と言われたが、別に命がどうのという入院でもないので、誰にも知らせてないと話したら納得してくれた。H君には迷惑をかけたが、これは、ぼくの身勝手な生き方なので許してもらうしかない。どうも浮世離れした生活をしていると、時として浮き世の義理は重たく感じるものである。まあ、病い以外は別なのだが。

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闘病体験を聞いて
 入院していた脳外科病棟は、ほとんどが頭の関係の患者さんたちである。こんな機会はめったにないので、入院中になるべく多くの方の闘病体験を聞きたいと思っていた。術前の10日間は検査以外は暇なので、他の病室に出入りしたり、食堂などでいろいろと話を聞くことが出来た。その中でも、脳腫瘍(良性)の患者さんたちの話は興味深かった。
 いずれも最初の病院では、歩行の異常や痺れは頸椎や腰椎からと診断されている。症状が軽かった事と、画像検査で小さなヘルニアや骨棘が存在していたというから、まったくの誤診ではないのだが。保存療法で症状が改善しないので、あみだくじのように病院を変えながら脳腫瘍にたどり着いたらしい。同室のOさんも腰の牽引をしていたが、たまたま歯の治療中に顔面に症状が出たため、歯科医大を紹介され、原因が脳腫瘍と判明したとのこと。みなさん本当の病名を知るまでに時間がかかっているのは、ぼくと同じだった。
 頸椎や腰椎では、ヘルニアや骨棘などが原因で脊髄を圧迫したり、神経根に触れて神経症状が出てくる。脳腫瘍も腫瘍が脳神経を圧迫して、似たような症状になるのだろう。同じような症状が出るものとして、靱帯骨化症、胸郭出口症候群や延髄梗塞などが知られている。ほかの神経障害によるものもあるだろう。とにかく早期に本当の病名を知ることは、とても大事なことのように思う。医師も神経障害の特定は、専門領域外であれば難しいのかもしれない。患者としても、症状が改善されない場合は病院を変えてみたり、消去法でいろいろと検査をしてみることも必要だろう。
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  病いの達人
04/20 (木)

   退院後444日  術後458日
(2005年1月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 どの世界にも達人と呼ばれる人たちがいる。入院してみて知ったのだが,患者さんの中にもそういう人が存在するのである。それは病いそのものの達人という意味ではない。病いと対峙するというよりは、むしろ病いを在るがままに受け入れて、病いとともに生きていこうという姿勢のようなものである。これは生来の気質だけではあるまい。病いとともに,いくつもの修羅場をくぐり抜けて得たもののようにも思える。

 一人は隣の病室に入院しているおばちゃん。もう一人の達人が,手術の前日に食堂で出会ったAさんである。珈琲を飲みながら雑誌を読んでいるときに話しかけられた。バーバリのガウンに手にはパイプを握っている。「病院だから吸うわけにはいかないが癖でね」と言いながらパイプを口にしたりしている。ぼくがあまり病人らしからぬ雰囲気なので話しかけたと言う。「南国のリゾートホテルに滞在しているつもりですから』と話すと「同じだねえ。ぼくも別荘に来ているつもりだから,こんな格好をしてるんだよ』と言って笑った。同じ階にある消化器病棟の個室に入院していて、まだ手術前だとのこと。70歳は過ぎているというが、声に張りもあり豪快な笑いと洒脱な会話からは、とてもそんな歳とは思えない。やがてAさんは自分の病いについて語りだした。

 乳がんの手術(男性もなるらしい)から始まり、内蔵のあちこちを手術し、現在は前立腺がんの治療中とのことである。良性の癌だが微妙な箇所なので全摘出は無理。残った腫瘍が大きくなったら(約5年)摘出の手術を受ける。今回が二回目だと言う。「もう数十年も病気と友達づき合い。病気とケンカしたら負けるからね,ははは、仲良くやってますよ』と笑いながら肌着をはだけて手術の痕を見せてくれた。両乳首のところに横10センチほどの痕、腹部には縦,横,斜めの手術痕が数箇所。病いとの戦いの証とはいえ、それは一瞬、息をのむほどの手術痕だった。
 「50歳で発病したんだが、その頃は、人並みに出世や豊かな生活に執着もあったが。しかし入退院を繰り返していると、そんなのはどうでもよくなってくるなぁ。大事なのは金よりも時間、物質的な豊かさよりも心の豊かさだってね。ははは。在るがままに生きるのは楽だし」と、こともなげに言う。ぼくはまだ煩悩が多いから、そんな境地にはほど遠い。

 Aさんと話した翌日がぼくの手術日。それから退院まで病室で食事をしていたので、再びお目にかかることはなかったが、まさに一期一会の出会いである。Aさんや隣の病室のおばちゃんも,ぼくよりは深刻な病を抱えているのにもかかわらず、精神的にはすこぶる健康的だった。よく笑い,元気があって,相手への気配り。ぼくが同じような立場に置かれたら,はたして同じように振る舞えるかどうかあやしいものだ。たぶん、今のぼくでは無理だろうなぁ。でも、達人たちに出会えたことで、これからの生き方についてのヒントを得たような思いがしている。


  卯月日記抄
04/29 (土)

     退院後453日  術後467日
(4月1日(土))晴〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 リハビリウオークを再開。運動不足だから当分は2キロ少々のコースを歩くことにする。赤の色が入ったシューズと下着の赤のパンツで気合いを入れ、朝の6時前に家を出る。しかし家から20mも歩かないうちに左足の筋肉が強ばってしまい、ヒョコタン歩きになてしまった。途中の原っぱでストレッチ体操をして、ヘロヘロ歩いて帰ってきたら7時を過ぎていた。帰りは昇り坂が多くてバテバテ。赤パンツは効果がないことが分かった。明日からは黒パンツだな。ウオーキング中に出会った人3人。猫ちゃん9匹。カラス4羽。

(4月12日(水))曇〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ぐずついた天気で寒い日が続いている。何とか来週のイタタ同窓会までには暖かくなってほしいものだ。体調の方はウオーキングのせいか悪くはない。しかし両足の筋肉がパンパンに張っている。来週は歩きを休んで様子を見よう。同窓会に動けなくなるとヤバイからなぁ。今朝シマトラの顔を見たら傷はすっかり治っていた。バットマンは先月から姿を見かけない。シマトラと出会わないよう忍者生活をしているのかなぁ。

(4月22日(土))快晴〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 天気は快晴,気温も暖かく絶好の同窓会日和だ。朝風呂に入ってから、お二人からオーダーのあったカレーの準備。いつもはカレー粉を使ってルーを作るが、花粉症だから安全パイで市販のルーを使うことにした。
 ニンニクを炒め、牛肉を焼き、ベースの玉葱のみじん切り、人参を炒めてから煮込む。ルーとスパイスを入れ味見。スパイスがケンカしてイタタ味が強い。ヤバ〜い。牛乳とりんごの擦りおろしを入れ何とかセーフ。侮れないなぁ〜市販のルーも。11時過ぎにやせ蛙さん下戸さん到着。
 蛙さんは何度かお目にかかっているが、下戸さんとは初対面である。だが、掲示板でお馴染みだったからか、古くからの友人のような感じだ。食事をしながら近況報告やらタンポポの話をしていたら、アッという間に時間が過ぎる。庭で記念撮影をして珈琲タイムで閉会。帰りの時間を考えれば仕方のないところだ。もっとオモチャや遊びについて話したかったのに残念。次回はゆっくりと話せる一泊にしたいなぁ〜温泉なんかでさ。もちろん石蕗庵でも可能だ。夏過ぎあたりだったら、ははは、まさか凍死することもないだろうからね。それも下戸さんの回復が前提なのだが。

(4月29日(土))晴時々曇り〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 先日、建築家のマクォット氏より毎年恒例の翔青館「筍パーティ」の案内メールが届いた。今年のテーマは「遊心」、シエフの武ちゃんが遊び心で腕をふるうらしい。ご馳走が目に浮かぶし、ガモさんの出店するカフェーの珈琲も楽しみだ。だが、ちょっと心配なことがある。同窓会後に再び始めたウオーキングの最中に,右足を痛めてしまった。太もも裏側の肉離れである。5月5日のパーティまでに、まともに歩けるようになるか心配だ。こんな調子じゃGWではなくIW(鉄週間)となりそうな予感がする。


▼ 2006年5月
  リハビリから退院へ
05/02 (火)

   退院後456日  術後470日
(2005年1月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 手術後、1週間目の24日に抜糸翌日から術後のリハビリが始まった。予定は28日までの4日間午前中に理学療法、午後から作業療法のリハビリテーションを各1時間少々受ける。初日は、術後の筋力や歩行の動作チエックをしながらの歩行訓練。左手の巧緻運動測定と訓練。握力測定では、左手が8から28に、右手が24から36に向上していた。これは術前の1週間前から始めたゴムボールによる握力訓練も効いたのかもしれない。

 2日目からの理学療法は,ストレッチ体操から中腰歩行、周回コースとスロープ歩行。3日目はこれにコースに設定されている階段昇降が加わる。最終日は左手に負荷用の砂袋を持って全コースの歩行訓練で終了。術前の杖を使ってのヘロヘロ歩きから比べれば、格段の回復である。手術の成功で四肢麻痺の心配が払拭されたことも一因だろう。
 作業療法は、ほとんど左手の巧緻運動訓練である。プラスチック粘土を丸めて、20個ほどの小玉を作る。それを左手で餃子の皮状に延ばす作業。諸々のピースを所定の位置に左手で移動させる訓練。缶の中のお米に、おはじき、ナット,ワッシャー、ビー玉などがいろいろ入れてある。それを左手の指で探して取り出す作業。指先が痺れているので難しい。最初は全部取り出したつもりでも5個くらいは残っていた。それも最終日には全部取り出せるようになり、予定のリハビリテーションが終了した。

 リハビリが終わった28日の夕方、先生から「いつ退院してもいいですよ』と、退院の許可が出た。しかし暖かい病院から寒い自宅に帰ると思うと、とたんに気が重くなる。区切りのいい月末まで、と言ったらOKが出た。入院待ちの人たちがいるから、あまり無理も言えないのだが2日ほど延びたのでホッとする。真冬の娑婆に出て行くには、それなりの心の準備というものが必要なのだ。そんなわけで2日間はゆっくりと過ごさせていただいた。
 退院前日の夜。夕食後にテレビを見ていたら、そのまま眠ってしまったらしい。物音がする気配で目を覚ますと、担当看護婦のKちゃんがテレビを消してくれているところだった。イヤホーンを外したら「明日は退院ね、何かあったら遠慮せずに、何時でもいいから言って来てくださいね」と、ぼくの耳元でやさしく囁いた。ぼくも「今まで、いろいろとありがとう」などとお礼を言ったのは覚えている。だが、夢うつつのぼくは、それからのKちゃんの囁き話を、あろうことか子守唄代わりに眠ってしまったのだ。何にを話してくれたのか、甘酸っぱい感覚だけの記憶。

 とうとう退院の朝を迎えてしまった。朝食後に退院の準備をするが、大した荷物もないのでバックパックに詰め込んで10分で完了。あとは同室のみなさんや、お世話になった方々に退院の挨拶まわり。ぼくよりは早く退院するはずだった同室のOさんは、鼻から髄液が漏れるというトラブルで,あと3週間は入院するらしい。午前10時にイノハナホテルをチエックアウト。ぼくの25日間の思い込みホテルでの滞在が終わったのである。玄関ホールの自動ドアを出ると,真冬の寒気が身をつつんでくる。寒いなぁ〜現実の世界は。


  久しぶりの外出
05/12 (金)

   退院後466日  術後480日
 なんとなく家にいるのがもったいないような、そんな感じがする天気である。右足の肉離れも普通に歩けるまでに回復したので、延び延びになっていたF君の展覧会を観に出かけることにした。午前11時過ぎに昼食用のおにぎりとお茶ボトルをデイパックに入れ家を出る。電車に乗っての外出は1ケ月ぶりで、何となく遠足に行くような気分だ。
 最寄りのH駅で降りて駅前の古本屋に寄り道する。身辺整理で蔵書を処分してからは、新刊の本は購入していない。図書館で読んだり、古本屋で安い本を買って読んでいる。以前は渋谷の道玄坂や神田神保町の古書店あたりで、欲しい本があれば高価でも手に入れていた。しかし今はそんな所有欲もなくなった。読めればいいのである。したがって古本屋で購入する単価も、単行本や文庫本それぞれ税込み105円が基準になってしまった。すっかりシンプルライフが身についた感じだ。

 この古本屋はBOOK・・・というチェーン店である。新刊本が約半値で、だんだん棚を移動し、やがて105円の棚に収まるのである。そこでぼくが手に入れるという図式なのだ。目を付けていた数冊の本はまだ手前の棚なので次回まで見送り。105円の棚から再読したくなった安部公房の「箱男」の初版本を買う。たまには段ボールの箱の中で寝てみるかな〜。
 歩いて10分ほどの文化会館に向かう。文化会館に来るのは数十年ぶりだ。オスカー・ピーターソン・トリオの演奏を聴きに来たとき以来だ。なぜハッキリ覚えているかというと、当日のピーターソンの演奏が最悪だったからである。ホールの音響のせいで気が乗らないのか,スタンダード曲を適当に弾き流していた。ただ達者なだけのピアノ演奏を聴いていたら、むしょうに腹が立ってきた。Jazzはハートだぞ〜ってね。この演奏を聴いてからピーターソンが嫌いになり、持っていたレコードも人にあげてしまった。ずいぶん昔の話だ。
 文化会館に隣接する図書館の前庭ベンチで遅い昼食にする。最近は外出での昼食は手作りおにぎりが定番になっている。さわやかな風を感じながら新緑の樹の下で食べるおにぎりは最高!レストランで食べるものよりは数倍は美味しく感じる。

 会館へのアプローチ道路を歩いていると、いつの間にか大勢のおばちゃんたちに囲まれて歩く展開になった。みなさんもF君の展覧会を観に訪れた人たちなのだろうか。F君もメジャーになったものだと感心しながら、おばちゃんたちと一緒に会館に入っていくと、な、なんとJA主催の五木ひろしショーの受付前だった。まいったなぁ。係員から「もうすぐショーが始まるので、中に入ってお待ち下さい」と促されたが、ぼくはF君の展覧会が目的だから丁重にお断りした。これが都はるみショーだったら元気をもらえそうだから、入ったかもしれないが。五木さんじゃ、ははは、たそがれちまうからね。ご遠慮した。
 ホール脇の特設ギャラリーの方はいたって静かである。F君と女性ふたりが談笑中。まずは作品を拝見してから話に加わる。先ほどの一件を披露したら、みんな大爆笑。自販機の珈琲を飲みながら閉廊の4時まで話し込んでしまった。ホールの前を通ると、中から『横浜たそがれ」の曲が聞こえてくる。ショーも終盤のようだ。
 久しぶりの外出だったが足も快調、お喋りも楽しめたし、いい一日だった。


  退院後のこと
05/17 (水)

   退院後471日  術後485日
 昨年の2月から書きはじめた闘病記も、01年8月の発症から05年2月の退院後までの過去日記の部分が、今回の書き込みで終了する。これで過去と現在が一本につながったことになる。発症から退院までの過去日記と、退院してからの現在進行形の闘病日記を、交差させながら書いてきたが、週一回の書き込みとはいえ1年3ヶ月もかかった。目のトラブルや体調不良などもあったが、最大の原因は過去の記憶という点にある。
 日記を書く習慣のないぼくには、過去を思い出す手がかりが限られていたからである。病院の領収書、診察券に記載された日付、受診予約票のコピー、展覧会のDM、手紙、入院時の検温帳に書き込んだメモなどである。ずいぶんと頭の中に汗をかいたが、ははは。これで認知症になる確率が減ったかもしれないな。まずは一段落ついて、やれやれという感じだ。

(2005年2月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
退院後のこと
 暖かいイノハナホテルから真冬の石蕗庵に戻ると、その温度差に体がついていかなかった。なにせ朝起きると18度くらいの温度差である。そんな状況でも、2週間もすれば不思議と体が慣れてくる。しかしその慣れも右半身だけで、左半身は寒さに悲鳴をあげていた。入院中には感じなかったが、相反するふたつの肉体を所有しているようで、どうも妙な気分なのだ。正常な右半身に合わせて行動すべきなのか、あるいは左半身のハリフレロの哀願に従うべきなのか、はてさてどうしたものやら。精神的なものであれば相反する自分の心をコントロールすることには慣れているが、肉体的なこととなると、まったく自信がない。とにかく後遺症とは長い付き合いになりそうなことだけは確かなようだ。
 入院に関してはおおむね脚本どおりの展開。退院後の事後報告は、ご近所や知人などは聞かれたら話す程度に。友人やお世話になっている方々にも、何かの折に触れての報告になった。その方がいいな。そう思ったからである。命を左右するような入院じゃないし事後報告の方が気が楽だ。なにしろ本人は退院してるし、聞く方もあまり気を遣わなくともすむ。「じつは首の改造手術で入院してましたぁ〜』などと笑って話せるしね。

兄の決断
 ぼくの手術結果と術後の様子を見てから、兄はやっと手術の決断をしたようだ。ぼくが退院してから、さっそくK先生の診察を受けた。レントゲン、CT、MRIの画像から、頸部脊柱管狭窄症と後縦靱帯骨化症であること、靱帯骨化による脊髄圧迫はC3からC7までと広範囲であり、これは後方からの椎弓形成術でないと対応できないとの診断だったと兄から電話報告がある。今まで通院していた病院でも病名の診断は同じだったが、前方固定の手術を勧められていたらしい。入院予約までしたのに、決心がつかずに先延ばしにしていたとのこと。虫の知らせか、これが結果的には良かったことになる。もし前方固定の手術を受けていたならば、圧迫が広範囲なだけに、再手術のリスクを負うことになったかもしれないからだ。とにかく脊髄圧迫がかなり酷いことから、先生の配慮で2月末に手術をしてもらえることになった。


  五月日記抄
05/27 (土)

      退院後481日  術後495日
(5月6日(土))晴〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 右足太ももの肉離れが思わしくなく、昨日の筍パーティには参加できなかった。それと案内状をもらっていた陶芸家Tさんの展覧会にも行けそうにない。久しぶりに話したかったのに残念だ。午前中洗濯。午後から宮沢賢治の「春と修羅』を読む。賢治の心象スケッチは、ダ・ヴィンチの素描と何となく科学的で予言めいている点で共通したものを感じる。若い頃から5年毎ぐらいに再読しているが、読後感はそのたびに違う。深読みのできる作品なのだろう。そういう意味ではボルヘスの『永遠の薔薇・鉄の貨幣」の読後感に近い。久々の『春と修羅」は賢治の青い心象風景の中をあるいて行くような感じであった。息苦しいほどの色彩風景。もし賢治が画家だったなら、どんな風景を描いただろうか。

(5月14日(日))曇〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ギャラリー睦で開催中の「倉重光則+菅沼緑展」のオープニングパーティに出席。3時間ほどの楽しいパーティだった。彫刻家の三四郎さんとの珈琲談義。博識なAさんからは文壇や画壇の裏話。建築家のマクォット氏に筍パーティの様子を聞く。昨年とは顔ぶれがガラリと変わり、変人は出没しなかったらしい。ガモさんは鎌倉ワイン館でビデオ鑑賞した帰りだという。ビデオはワイン館オーナーの遠藤さんが出演したNHK・BSの30分番組とのこと。内容は鶴岡八幡宮本宮を、遠藤さんの約1000枚の写真プリントで組み上げ建ち上げる様子のドキュメンタリー。制作側が遠藤作品に作らされている。この主客転倒の様子が面白かったとはガモさんの感想。ぼくも機会があれば見せていただこう。お開きのあとは、ガモさん,Aさん、F君たちと茶店でお喋り。

(5月19日(金))晴〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 右太ももの肉離れも完全に完治したし、左手のしびれを除けば順調だ。今朝,ウオーキングの帰り道で「すっかり普通に歩けるようになったね〜、先月はビッコを引きながら歩いていたから心配してたのよ」と、タバコ屋のおばちゃんから声をかけられた。見られてたんだなぁ、あのヒョコタン歩きを。ははは。まいった、まいった。でも、おばちゃんから太鼓判を押されりゃもう大丈夫だ。あとはこの状態を維持しないとね。

(5月25日(木))晴〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ミシン遊びをする。バンダナ帽子を作るため,5月に入ってから型紙を作ったり、布を裁断したりして下準備はできていた。まずは裁断した布の立ち目かがり。順調に縫い上げていったのだが、頭が入る曲線の部分で大トラブル。縫い目を並行させることに夢中になり、他の部分が折り重なっていることに気付かなかった。大失敗。あ〜あ、帽子を結ぶ紐の部分もきれいに仕上がっていたのに。残念だがあきらめることにした。今度はガモさんのトレードマークである中東風帽子を参考に、シンプルなデザインにして再挑戦だ。


▼ 2006年6月
  サラバ愛しのジムニー
06/06 (火)

   退院後491日  術後505日
先月末がジムニーの車検切れだった。車検を取るか廃車にするか、2日ほど悩みに悩んだ。なにせ23年間を共にしてきた愛車だからである。エンジンは絶好調なのだが、闘病生活の身ではあまり乗る機会もない。体力的にはツライ車だからである。でも、ジムニーを廃車にするのはなぁ。当日の朝になっても決心がつかない。愛着があるだけに結論が出せないのだ。

 ジムニーとの出会いは23年前。それまではセリカのダルマDOHC2000に乗っていた。このセリカもいい車だった。80キロ以下では不機嫌なのだが、それ以上になると車体はピタッと地面に吸い付くように安定し,自分の手足のような感覚で機敏に走ってくれた。でも魔女のような車でもあった。運転席に乗り込みエンジンを回すと、回転音とともに全身が熱くなり、いつの間にか戦闘モードにさせられてしまう。130キロで嬉しそうに身震いする彼女に付き合っていたんじゃ命がいくつあっても足りない。年相応のおとなしい車に乗り換えようと真剣に考えて、コロナ,クラウンを候補に出物を探していた。
 その頃だ。ジムニー党を自認していたS君のジムニーで自宅まで送ってもらったのは。セリカがサラブレッドならジムニーはロバだ。見える世界がまるで違う。パラン,パラランというジムニーサウンドと、いかにも牧歌的なその雰囲気にすっかり魅了されてしまった。
 そんなある日,中古車情報誌を見ていたら,緑のジムニー幌の新古車の写真が目にとまった。何だか呼ばれているようで,翌日に休暇を取り東京の綾瀬まで出かけた。これが愛しのジムニーちゃんとの出会いである。一目惚れで即決。それから23年も連れ添ってきたのだ。何故かって?。そりゃ車の欠点を全部背負っていたからさ。ハンドルは重い、クッションは悪い,たまに雨が漏ってくる、排気音でラジオや話が聞こえない。それにスピードは出ない等々、ここまでくると反対に愛着がわいてくる。おかげで23年間も無事故無違反のゴールド免許。そんなジムニーちゃんを廃車にしてスクラップにするのは忍びない。

 いくら考えても結論が出ないので、いつも車検を頼んでいるショップにジムニーを持ち込んで相談することにした。スズキ車の販売修理をしているモータースである。話を聞いた社長は「車検を取らないなら,仕事が暇なときにレストアして、うちの看板車にするよ」と言ってくれた。この言葉で決心がついた。ぼくの愛しのジムニーちゃんが、動くアートと化していた錆だらけ穴だらけのSJ30が蘇るのだ。うれしいなぁ〜。
 事務所で奥さんの入れてくれたお茶を飲みながら、店先に展示してある中古車を眺めていたら、妙に気になる車が目にとまった。外に出るとシルバーのワゴンRだった。6年前の車だが程度はいい。走行距離も25000キロと少なく,しかもフル装備である。コラムシフトだから運転も楽そうだし、お使い車に最適かな。眺めていたら「よ・ろ・し・く・ね』と囁かれたようで、即決で購入することにした。
 購入のキーワードは、もちろんRさ。レンブラント先生のR、楽楽さんのRR、ワゴンR。ははは。こじつけだけどね。そのうちWRに乗って愛しのジムニーちゃんに会いに行こう。楽しみだ。


  梅雨の晴れま
06/14 (水)

  退院後499日  術後513日
今朝は4時に目が覚めた。窓を開けると外からひんやりした空気が入ってくる。昨日のまったりした空気とは違う感じだ。濃いめの珈琲で体中を目覚めさせ、軽い準備運動をして5時前に家を出る。外に出てみると、やはり思ったとおりに天気は快晴の気配。
 最近は左足の調子が戻ったのと引き換えに、左手の痺れが気になりだしている。左手の肘から手首までの軽い痺れと、手首から先の強い痺れである。だが、症状が悪化したとは考えにくい。今まで左足のイタタで分散されていた意識が、左手に集中することで痺れが増幅したように感じるのだろう。

 朝の澄んだ空気の中を、里山の緑を眺めながら歩くのは気分がいいし,家々の庭の花を鑑賞しながら歩くのも楽しみだ。先月は薔薇が花盛りで、とくに坂の途中に咲いていた赤い薔薇がお気に入りだった。「百万本のバラ」の真っ赤な薔薇のようで、いつも立ち止まっては眺めていた。花びらに触れて,そのビロードのような感触にドキッとしたりも。その薔薇の花も終わって、今は紫陽花や鉢植えの花々が見事に咲いている。朝露に濡れた花々の艶かしい佇まい。ほんのわずかな風の揺れでも、その表情は微妙に変わる。朝の光と色彩のハーモニー。一日のうちで花がいちばん美しく見える時間なのだ。

 これまで、ぼくは「歩き』にこだわっていたようだ。姿勢よくまっすぐ前を向いて足早に歩く。大きく手を振って、ときにはモンローウオークで。でも薔薇の花に出会ったときから歩きを変えた。見ているつもりの風景が、たんに見流しているにすぎないことに気付いたからだ。ゆっくりでいいのだ。ゆっくり歩くことでしか見えてこない風景もある。
 運動歩きは,いつもストレッチ体操をしている原っぱの外周300mを、以前の歩き方で3周している。だから舗装道路では路上観察しながらのんびりと歩いている。

 途中の空き家の前を通りかかると,縁側でシマトラがデート中だった。彼女の首の下の毛を嘗めてあげている。ゴロニャ〜ンなどと言いながら、前足を背中にかけたりもしている。猫語はわからないが「君はなんてステキなんだ」などと口説いているのかもしれない。

 ウオーキングから帰ると、濡れ縁でバットマンが爆睡中。久しぶりだが元気のようだ。それにしても何という寝姿だ。腹を出し両足延ばしての腕枕。声をかけたら,顔だけぼくの方に向けて目をパチクリさせている。やがて大きなあくびをしながら四肢を空に向けて突っ張り、ぼくの方を見ながら濡れ縁から降りていった。不思議だなぁ。バットマンは携帯ナビなんぞ持ってないし。シマトラが絶対に現れないと確信があるから眠っていたのだろう。でも、その確信はどこから得られるのだろうか。もしかしたら猫はナビのような特殊な能力を持っているのかもしれない。バットマンは四代目ボス猫シマトラに服従するよりは、なるべく顔を合わせないで気楽に過ごす方を選んだに違いない。


  ビキニのパンツ
06/23 (金)

  退院後508日  術後522日
家にいる時はラジオ放送を終日流している。どちらかと言えば「ながら族』の部類に入るから、家事をしながら,本を読みながら,ぼんやりしながら、聞き流している。一人暮らしだから、ラジオでも人の話し声が聞こえていることで、なんとなく気が安まるのだ。
 先日も日本放送の「テリー伊藤のってけラジオ』を聞いていた。テリーさんの独自の視点での語り口が面白い。ジーパンの話題になって,ジーパンをはくときのパンツは柄パンかブリーフかボクサーパンツかということになった。ぼくもジーパン党だから聞き捨てならない。
 テリーさんが「そりゃ決まってるじゃん、ビキニなんだよね。ピタッと収まるし,ジーパンはくにゃ究極の下着なんだなぁ」と、言っている。ぼくはビキニを持っていない。どう考えても、その感触が想像できない。そこで、新相棒のWRちゃんに乗ってビキニパンツを買いに出かけたってわけだ。

 いつも下着などは近所の衣料品ストアで買っているが、なにしろビキニパンツだからと、専門店が入っているショッピングビルで買うことにした。下着フロアに行くと、女性の下着売り場と変わらないほどの充実ぶりには驚いてしまった。下着メーカーやスポーツ用品メーカーも男性下着に力を入れているのだろう。3枚500円の柄パンから1枚数千円のものまでと、いろいろ揃っている。たしかに2700円のパンツは手触りや色デザインもいいのだが、今のところ勝負パンツをはく機会もないから、ははは、今回は見送りだな。
 男性下着売り場だというのに、5、6人の奥さんたちが品定めをしている以外は男性の姿はない。奥さんたちは旦那のパンツを買うときは、素材やデザインで選ぶのだろうか、旦那の裸体を思い浮かべて似合う物を選んでいるのだろうか。大いに気になるところだが、まさかねえ、聞くわけにもいかない。単純に値段やサイズだけだったりかもね。
 ありゃ〜フンドシコーナーもある。絹の無地や綿の柄物など、見ているだけで涼しそうだ。フンドシ締めてゆかた着てさ、蛍狩りもいいだろうなぁ。でも、きょうはビキニパンツだ。ビキニのコーナーは華やかで、派手な色や刺繍入りのものもある。あれこれ物色し、刺繍入りもと思ったが、歳を考えて無難な黒と紺を2枚ずつ購入した。

 家に帰ってから、さっそく試着。ワ〜オ〜、裸でジーパンはいてるようでグーじゃん。ピタッと収まるに関しては、ぼくのはそんなに立派じゃないから関係ないにしても、はき心地はかなりのものだ。テリーさんの言っていた「ジーパンにはビキニなんだなぁ」を納得した。
 だが、ジーパン脱いで鏡に映った自分のビキニ姿を見て,いっぺんにブルーな気分になっちまった。ボクサーパンツのときは感じなかったが、ビキニだとねぇ〜下腹のお肉が、ムムム、見られたもんじゃない。病気をする前は腹筋のコブも4個ほどあったのに、それが全部ブヨブヨお肉だもんね。ハア〜。これで外を歩くわけじゃないから、ま、いいかな〜。でも、刺繍入りのビキニを買わなくて・・・正解だった。

 


  手術後の後遺症 水無月雑感
06/29 (木)

  退院後514日  術後528日
後遺症
 退院してから1年5ヶ月が過ぎた。梅雨期も二度経験したことになる。昨年の梅雨期前の5月中旬頃はひどかった。左手や左足の痺れやモヤモヤ感に加え、首の左後方の痛みと強烈な肩コリ、それと左背中の圧迫感があった。それに比べれば、今年の梅雨期の症状はかなり改善されたといってもよいだろう。左手の痺れは相変わらずで変化はない。でも他の左半身の部分は軽い違和感はあるもののイタタの症状は出ていない。しいて上げれば、首の左前側と左鎖骨の周辺が軽く痺れてモヤモヤしている程度か。昨年と比較すると確実に回復に向かっているのは実感できる。だが完全回復までには,まだまだ、かなりの時間が必要だろう。

赤いパンツ
 3月頃だったか、雑誌を読んでいたら「元気の出てくる赤いパンツ』の記事が目に入った。赤という色は精神を高揚させる効果があり,それを身に着けることで、血の巡りが良くなりモリモリ元気が出てくる。そんな内容だった。左足の筋肉が硬直していてヒョコタン歩きをしている頃だったから,さっそく近所の衣料品ストアで真っ赤なボクサーパンツを購入した。レジで赤いパンツを差し出したときは、ちょっと恥ずかしかったなぁ。
 そういえば、先日のラジオで、女性用のパンツを万引きした57歳の会社員のことが話題になっていた。レジで精算するのが恥ずかしかったらしい。その気持ちはよ〜くわかる。でもね、日頃から女性用パンツを身に着けていたなんて、とても理解できない。
 ぼくが買った真っ赤なパンツは、ウオーキングで試してみたが見事にその効果は出なかった。つまり健康な人がはけば、それなりにモリモリ効果はあるのだろうが、そうでない人には効果がないらしいのだ。その「元気の出てくる赤いパンツ』は、今は箪笥の引き出しに収まっている。そのうち健康になったら試してみよう。ははは。モリモリ効果をね。

梅雨と洗濯
 なんだか梅雨に入った6月より、先月の方がよほど梅雨らしい天気だった。曇りの日が多いが雨は比較的に少ない。今年は空梅雨なのだろうか。雨は降らなくとも太陽が顔を出すのは、せいぜい週に一日か二日程度である。晴れれば当然ながら洗濯が最優先になる。
 曇りや雨の日でも、洗濯して室内干しにすればいいのだが、室内に洗濯物がぶら下がっているのは好きではない。なんとなく生活臭さが目につくような感じが嫌なのだ。家族が多ければ、そんな贅沢は言っていられないが、一人暮らしだから勝手なことを言っている。
 洗濯物というものは陽に当てて干さないと洗濯した気分にはならない。これがぼくの持論である。下着など身に着けたときに,ほのかに太陽の匂いがしてくるのがいいのだ。だから、晴れた日は朝から洗濯、干す、取り込むを2回転する。その間に他の家事をしているにしても、洗濯物をたたんだりアイロンがけが終わると夕方になってしまう。でもホカホカした洗濯物をたたむのは、じつに気持ちのいいものだ。


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