ツワブキさんの闘病日記(3)

国の難病指定、後縦靭帯骨化症、手術方法は後方椎弓形成術

 手術決断〜入院に向けて(回想2004年1月〜12月) 日記記入日:2005年10月〜2006年1月 術後257日〜術後375日

 闘病日記(3)

 ▼ 2005年10月
  幕間に
  宿題
  檸檬の万年筆
  ミシン遊び
  口のストレッチ

 
 ▼ 2005年11月
  同窓会
  日の移ろい
  M君からの手紙
  続 携帯電話
  サラバ坐骨神経痛
  日記抄

 
 ▼ 2005年12月
  ニセ・イタタ考
  さびしい庭
  再浮上
  不安な日々
  首が壊れている
  手術の決断
  忍者生活

 
 ▼ 2006年01月
  越年日記
  正月雑感
  難病申請
  入院計画
  入院準備
  睦月日記



闘病日記(1)
  2005年2月〜5月

闘病日記(2)
  2005年6月〜9月

闘病日記(4)
  2006年2月〜
   2006年6月



みんなの闘病記

サイトトのップ




▼ 2005年10月
  幕間に
10/01 (土)

  退院後243日  術後257日
先週あたりから寒くなったり暖かかったり、温度差が10度もあると体がついていかない。季節の移り変わりが、もう少し穏やかにいかないものか。用心していたのだが、この気温のゆさぶりには耐えられずに風邪をひいてしまった。熱はないのだが鼻水が止まらない。テッシュは1箱も使うし、鼻の先端の皮までむけてしまった。運動不足で抵抗力が弱まっていたのかもしれない。どうやら今年は冬の訪れも早そうな気配である。今のうちに体を鍛えておかないとヤバイことになりそうだ。来週からボチボチとウオーキングを再開しないと。
 それと頸椎の手術で中断していた歯の治療もしなければならない。退院後はガガガの歯の治療で首が壊れそうな気がして、延ばしに延ばしてきたが、もう限界のようである。観念して予約の電話をかける。うずいている虫歯が1本、差し歯の修理が2本と考えただけでもゾッとする。よくもま〜イタタの修行がつづくものだと、感心すると同時に気が滅入ってくる。もう十分に修行したつもりだが、まだかな〜。目の方はパサパサ感も少なくなり、目薬も朝昼晩にさすだけになった。きょうからPCを解禁して少しずつ目慣らしをはじめた。この調子だと、来週あたりから週刊闘病記の更新も再開できそうである。

(2004年1月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 最初のシグナルから3回目の正月を迎えた。座骨神経痛のイタタの修行がはじまってから2回目の正月である。この数年は正月を迎えて、生きているのを確認してから年賀状を書くようにしている。闘病中だから、郵便局の推奨する12月中の投函には抵抗を感じてしまうのである。年賀状を出してしまってから、なにか不測の事態になったらシャレにもならないではないか。だから確実に正月を迎えてから書くようにしているのである。
 正月も明けた1月中旬に、斜め前のご隠居とドライブに行く約束があった。その当日の朝にご隠居から電話がかかる。「朝から調子が悪いので、またにしましょう、すいませんね〜」と力のない声である。お見舞いを言って電話を切ったが、翌日に容態が急変し入院してしまわれた。血管の病気とのことである。息子さんの話では入院は長くなりそうだが,危険な状態ではないとのことで安心した。なにしろ90歳をすぎても車を運転し、ぼくを乗せてドライブしようというくらいだから、たぶん、病気を克服して元気に退院されるにちがいない。
 ぼくも人生の第二幕をおろして、その舞台装置もあらかた整理がついた。さて次の第三幕の人生劇場はどういう脚本にするかだ。漠然とだがスタンスは「旅人」だろうな、などと思ったりしている。いつ回復するのかわからない闘病生活に身を置いていると、それがとても、すばらしいことのように思えてくるのだ。三幕までの幕間と位置づけている闘病生活も、もっと悪化する可能性だって十分にある。最悪の場合も考えておかねばなるまい。完全に身動きできなくなれば、どこかの施設にでも入ることになるのだろうが、そうでない場合が困る。世間とどうやってコミニケーションをとっていくかである。友人のガモさんにそれとなく聞いてみると、これからはインターネットの時代で、家にいても世界中の人たちとコミニケーションもできる。自分のHPを立ち上げれば、いろいろな表現も可能になる。との話なのだが、超アナログ人間のぼくに、それができるとも思えない。が、考えていても仕方がない。とにかく ADSLを導入してからの話だろう。


  宿題
10/04 (火)

   退院後246日  術後280日
 朝から冷たい秋雨が降ったりやんだり、こんな日には思い出したように、左手の後遺症までがうずいてくる。それに脊髄症状のあった左足までモヤモヤしている。期待したわけでもないが、鼻風邪も栄養ドリンク剤1本で、あっけなく治ってしまいガッカリしてしまう。それは、きょうが歯科医院の予約日だったからである。鼻水が止まらなかったら延期するつもりだったが、治ってしまったら行くしかない。このあたりの心のありようが微妙なのだが,本当のところは行きたくないのだ。
 首のような大手術だと、かえって肚が据わってしまい悩んだりはしない。ところが歯の治療だと、からきし意気地がなくなる。治療台に坐り隣の治療の音で、もう心臓が高鳴ってくるのだ。まず、うずいている虫歯の治療から。麻酔を歯の周辺の4箇所に打ち、効いてくるまで差し歯の土台の補修をする。差し歯は1本は使えるが、ほかの1本は割れているので使えず、土台の金属も駄目らしい。やがて虫歯の方の治療がはじまった。麻酔が効いているので痛くはないが「チューン、ガガガ」の音と、首がカクカクするので目眩がしてくる。
 「こりゃ、なかまでヤラレテるよ、根の治療をして差し歯だね」ホエ〜また差し歯が増えちまう。根の治療と言う先生の言葉で、またまた目眩がしてきた。「よくもまあ、こんなになるまで我慢したもんだ、神経がパサパサになってるよ」と、先生はその神経片を見せてくれる。普通はシットリしているらしいが、それは干物のように乾いていた。
 歯の治療では根の治療がいちばんの苦手である。数種類の針に脱脂綿を巻きつけて、根に差しこみグルグル回してスポッと抜く。これがしばらくつづくから堪える。どうしても顔が逃げるから、そのたびに先生に向きを直される、このくり返しなんだもんね。まあ、首のストレッチにはなるかもしれないな。虫歯の治療が終わると、補修した土台の金属に差し歯を固定して、きょうの治療は終わった。
 治療室を出ようとすると助手の女性からレントゲンを撮りま〜すと声をかけられる。1枚は虫歯の治療場所を撮ったが、もう1枚は全体を撮ると言われ,指定された場所に顎をのせ目を閉じる。以前は動いて失敗したからである。目をあけていて動くカメラと一緒に顔が動いたからだ。もしかしたら、ぼくの前世は猫だったのかもしれない。なにか動くものを見ると、目で追う習性があるからである。
 受付で先生から差し歯の件で説明を受ける。「わたしも長く歯医者をしてるが、こんなに噛む力が強い患者は、はじめてだよ」と言われる。それと噛む力が強いのですり減って虫歯になりやすいとも言われた。だろうな〜虫歯にはなるし、保険でいれた差し歯は,もう5本は噛み砕いているからね。保険だと壊れても2年経たないと新しい差し歯をいれられない。ぼくの割れた差し歯は1年あまりで壊れてしまったのである。10年前にいれた保険外の前歯はビクともしないから、その差は歴然である。
 「保証はしませんが、保険でも少し高いですけど、もう少し丈夫な歯もありますが」と説明された。保険ではいる歯、並か上か、あるいは保険外の強い歯か。保険外だと2本で17万円である。「よく考えて来週の治療のときに返事をください」と先生から宿題を出されてしまった。
 むずかしい宿題である。これは「つもり預金」で買うつもりでいたデジカメD70S とレンズ2本をあきらめて、差し歯2本にするかどうかの悩ましい問題だからである。たぶん、ぼくは来週までの1週間は、悩める哲学者として過ごさなければならないだろう。


  檸檬の万年筆
10/12 (水)

   退院後254日  術後268日
先週の歯の治療もイタタだったが、きょうの治療も相当なものであった。差し歯が割れたのに放置していたので、土台の金属までが壊れてしまったらしい。頸椎の手術で入院する直前に壊れたのだが、退院してから治療しますと話してあった。しかし退院してすぐにというわけにもいかない。K先生からは、手術部の固定した骨が付くまでは安静にしているようにと、言われていたからで。それに、あの治療台の上でガガガとされたら首が折れそうな気がした。無論そんなことはないだろうが、ぼくは生来の歯医者嫌いだからである。それでも治療台に坐ると観念してしまう。
 先生は壊れた土台の金属を取り外し,そのあとの補修をはじめる。「ガガガ、チューン、ギギギ」頭にガクガクひびくし首もカクカク。これじゃ退院後すぐに治療を受けていたら,固定した頸椎4箇所がバラバラになったかもしれない。今まで我慢していて正解であった。次に歯肉がかぶっている部分を電気メスで切り取る。麻酔ブチブチ打たれて、麻酔が効いてくるまで虫歯だった歯に仮歯を入れるためのガガガの加工。
 しばらく口を開けっ放しだったから、少し休憩したいのだが,先生は委細かまわず歯肉の切除をはじめた。麻酔をしているとはいえ痛〜い。また麻酔を打った。ヒエ〜悲しくもないのに涙が出てくる。虫歯だった歯に仮歯を入れて、きょうの治療が終わったときには、もうヘロヘロ状態であった。受付で先週出された宿題の答を言わなければならない。「保険外でお願いします」と言ってから、少しだけ後悔したりもした。

 このまま家に帰る気にもなれず、スーパーのなかの本屋さんに顔を出すことにした。本屋の奥さんに慰めてもらえば少しは気が晴れるかもしれない。そう思ったからである。本屋に入ると、台の上に輪ゴムで十字にとめて、中がふくらんでいる雑誌が積んである。見ると「ラピタ」で、表紙のコピーに「万年筆が付いてます」と書いてある。アリャ〜付録だ。ぼくはこういうものには弱いのである。子供のころには漫画雑誌の付録が楽しみだった。紙飛行機、紙製の組み立て映写機、野球カードなど、付録が多いほど胸が騒いだものだ。ぼくはこのころの気持ちがまだ抜け切れていないらしい。
 奥さんに本代の980円を支払い、床に坐って付録を取り出す。奥さんに「まるで子供みたい」と笑われたが、付録なんざあその場であけなきゃ感激が半滅するというものだ。付録はレモン色の万年筆だった。それを見たときに、ぼくは幻の万年筆のことを思い出していた。
 それは以前に日本橋の丸善で見た檸檬の万年筆である。丸善130周年記念の限定品で、梶井基次郎著「檸檬」が由来との添え書きがあった。値段を見ると二万五千円である。すぐにも手に入れたかったが、あいにく持ち合わせがなく、次の機会にとそのときは断念したのである。しばらく経って檸檬の万年筆のことを思い出し、金を工面して出かけたのだが、売り切れていてがっかりした。だから檸檬の万年筆は、ぼくにとって幻の万年筆だったのである。
 そんなことを思い浮かべながら雑誌を読むと、丸善とコラボレートして、あの幻の万年筆「檸檬」を「ミニ檸檬」として復刻したと書いてある。それが付録の万年筆なのである。手にとるとオリジナルより短いが重さは同じ感じだ。家に帰りさっそく書いてみると、バランスも書き心地もかなりいい。ぼくの持っているモンブランより書きやすいかもしれない。まさか雑誌の付録で手に入れるとはね。きょうは少しだけ涙が出たけれど、うれしいレモン色の日であった。


  ミシン遊び
10/18 (火)

   退院後260日  術後274日
今月からリハビリのウオーキングを再開する予定だったが、歯のイタタの治療のために再開できないでいる。今週からと思っていたが雨で出鼻をくじかれてしまった。それに連日の冷たい秋雨には後遺症だって嫌だと騒いでいる。手術前に脊髄症状が出ていた左半身もモヤモヤしている。なんだか退院後の3月あたりに逆戻りしたようにも感じられる。こんなときには、なにか気晴らしが必用だ。そこで先月の夏物バーゲンで買ったジーパンの裾直しとブレザーの袖詰めをすることにした。気がまぎれるかもしれない。
 ミシン糸とボビンは、先月のパーティに出かけた折に駅ビルの手芸店で購入ずみである。端切れ布を持参したのでミシン糸の色も問題はない。数年ぶりに押し入れからミシンを取り出す。これは2台目のミシンである。最初のものは小型の電子ミシンだったが、厚物を縫うと、止まってしまった。そこで下取りに出し買い替えたのである。油を差し電源を入れると動きは快調だ。
 まず2種類の糸を下糸用にボビンに巻き取って準備をととのえる。ジーパンの裾を股下寸法に切断するが,このときほど自分の足の短さを痛感させられることはない。切り落とした裾布を手にするとため息が出る。裾の始末は縫い目が重なるところが厚くなるので,きれいに縫えるように仕付け縫いをしてからミシンをかけたらバッチリ。問題はブレザーの袖詰めだ。袖ボタンの下のスリットの部分がむずかしそうだ。
 これは女性に聞いたほうが簡単かもしれない。近所の奥さんに聞くと「うちでは洋服の直しはクリーニング店で頼んでいるのよ」との話であった。今時は、それが普通なのかもしれない。だいたい男のぼくが裁縫などするのがおかしいのだ。はははは。これは遊びだ,気晴らしだ。仕方がないので袖の様子を子細にスケッチする。ボタンを外して袖を寸法に切り、折り返してアイロンをかけ仕付け縫いをする。ここまで終わったら午後の3時,夢中になると時間が経つのを忘れてしまう。ここで珈琲タイム。
 深煎りの珈琲を飲むと頭がスコーンと抜けるようだ。横になってぼんやりとミシンを眺めていると、若いころに読んだ本の中のフレーズが浮かんでくる。それは10代の終わりころに読んだ、現代思潮社発行のロートレアモン著「マルドロールの歌」である。第六の歌の中のフレーズ「ミシンと洋傘との手術台の上の不意の出会いのように美しい!・・・」このフレーズを目にしたときに、ぼくも、このような感性の美しい出会いを経験したいものだと思った。それからの、ぼくの生き方に大きな影響を与えてくれた本でもある。もし、この本に出会わなかったならば、あるいは、ちがった人生を歩んでいたかもしれない。だが、今まで演じてきた人生劇場の脚本に不満はない。もし生まれ変わることができたとしても、たぶん同じような生き方をするだろう。でも、その際の脚本にはイングリット・バーグマンのような女性を相手役に登場させていただきたい。ははは。ぼくは欲が深いのだ。
 また、いつもの癖が出てしまった。何かしている途中に物思いにふけるのが、ぼくの癖なのだ。家事や本を読んでいるとき,音楽を聴いたり散歩の途中でも、不意に夢想の世界に入り込んでしまう。べつにスローライフで暮らしているから支障はないのだが。
 しばらく休憩したのでミシン遊びを再開する。ボタン裏側のスリットの部分をほぐし,詰めた部分だけ修正してミシンで縫う。仮縫いしてあった袖先をミシンがけして、最後にボタンをつけて終わった。試着してみるとドンピシャリである。夢中になっていたので後遺症のことなどすっかり忘れていた。たまにはミシン遊びもいいものだ。


  口のストレッチ
10/25 (火)

  退院後267日  術後281日
きょうは久しぶりに晴れて、昨日よりは、かなり暖かい。雨模様の肌寒い日と、きょうのような暖かい日では体調はガラリと変わる。神経症状は天候に左右されるのだと思い知らされる。こんな日に歯の治療があるなんてうらめしい。差し歯の土台用金属を2本取り付けるのだ。きょうの治療は簡単だろうと高をくくっていたが,それはとんでもない間違いであった。1時間半たっぷりと口を開かされた。金属の取り付けは簡単にすんだが、それからが本番だった。金属部分を削り、差し歯を入れるための加工である。2本の歯の周辺部分に麻酔を打ち、大まかな削り加工がはじまった。鋭い金属音と重苦しい熱さがじんわりと伝わってくる。冷却用の水で口がいっぱいになると、吸引ノズルで吸い取ってくれるのだが、少し飲んじまった。ホエ〜,ノズルと先生の指で口がいっぱいだ。もう限界だと思ったころにやっと荒加工がすんだ。また麻酔ブチブチ打ってしばらく休憩。
 仕上げ加工は先ほどよりも時間がかかる。2本目が終わり近くなったときに「あとで差し歯の色を見本で選んでください」と、先生が話しかけた。「グホッ,アグ,ゲア、ゲホッ」口の中が冷却水でいっぱいだから返事ができない。また水を飲んでしまった。色指定のあと差し歯用の型を取ってやっと開放された。どうも口のストレッチを1年分はしたかもしれない。差し歯の代金を支払うとき、またデジカメD70Sのことが思い出され恨めしくなってきた。麻酔で唇がしびれているし、口もくたびれていて、だれとも話したくない気分だ。家にこもってお地蔵さまにでもなっていよう。

(2004年2月〜3月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 2月に入り斜め前のご隠居の奥様が亡くなられた。入院中のご隠居も、さぞガッカリされていることだろう。お茶やお花のお師匠さんで、いつも笑顔で話してくれた品のいいおばあちゃんだった。亡くなる前日も愛犬を連れて散歩中のおばあちゃんと立ち話をしたのにと、その突然の訃報に驚いた。おばあちゃん安らかにとご冥福を祈る。
 1月からアトリエだった小部屋を少しずつ改装してきた。リサイクルショップで椅子や机などを買い、ついでに部屋にセットしてもらうと書斎らしくなってきた。準備が整ったので NTTにADSLの申し込みに出かける。受付で書類に必要事項を書きこみ提出すると「パソコンは、なにをお使いですか?」と、聞かれる。エッ,「パソコンが先ですか」と聞いたら,担当の女性が笑ってる。そうだよな〜普通はパソコン買ってからだろうな。帰りにショップでアップルの iBookを購入した。帰宅して取り説を読むと、意味不明の専門用語がいっぱい。それらを抜かして読んだら、ますます頭が混乱してきた。パズルの取り説を読むより、専門用語の理解のほうが先だろうな。ネット接続が終わってからでも遅くはない。時間はたっぷりあるのだから。
 3月に今年2回目のカイロ治療に出かける。前回の神経測定チャートにくらべると,腰から首近くまでかなりフラットになってきている。ただ首の部分が、あいかわらずブレていて変化がない。先生に「体のバランスは、だいぶ良くなっています,あと首のあたりですね、しばらく様子を見ましょう」と励まされる。最悪の場合を考えて身辺整理をはじめたら、座骨神経痛も回復に向かいはじめたようだ。良くなるようにと念じていたときには思わしくなく、なんとも皮肉な話だ。運命とは自分の思いとは逆に動くのかもしれない。

 


▼ 2005年11月
  同窓会
11/02 (水)

  退院後275日  術後289日
毎年この季節になるとOB会やら同窓会の案内通知をいただく。身体が元気なときには、過去の舞台を覗き見るような気がして遠慮していた。だが、闘病生活に身を置いていると妙に人恋しくなるのである。むかしの仲間に会ってみたくなるのだ。出席するつもりでいたが,当日に体調が悪くなり欠席したら幹事さんに迷惑がかかる。しばらく様子を見ることにしていた。ところが、あいにくと10月下旬からの秋雨前線の影響で、体調が谷に向かいはじめる。残念だが闘病中で欠席する旨を記して投函した。
 案内のひとつは会社に入社した当時の職場の仲間たちからである。業務部のなかに新設された部署で,上司をのぞけば全員が新入社員であった。それも6年をすぎたあたりから組織の見直しで少しずつ仲間の移動がはじまり,最終的には、ほとんどの仲間が他部課に転籍となってしまう。若いころの、なつかしい仲間だ。
 ぼくが転籍したのは、社内で当時「気違い部落」と呼ばれていた研究所である。当時は1200人もいた研究所の社員も、ぼくが退社するときには400人たらずになっていた。 その研究所の OB会がふたつ目の案内で、もう一通は小中学校の同窓会の案内である。ほとんど出席していなかったので、なつかしい顔を見たかったが残念である。
 さて次の同窓会だが,これは出席できる。なにせ、わが石蕗庵が会場だからだ。ただ心配事がひとつある。それは寒さで,友人諸氏も晩秋から春先にかけては石蕗庵には顔を出さない。大正末期の町屋を移築した建物だから、どこからともなく風は入ってくるし、床下は60センチの高さで吹きさらしである。アバラ屋だから庵と名づけたが、とにかく寒い。出席者は、やせ蛙さんと下戸さんだ。お二人ともヘルニア星の首同盟の同志だから、耐えることには慣れているだろう。が、念のために「股引をはき忘れないように」とメールで釘をさしておいた。はははは。来月の同窓会は「イタタ鍋」でも囲みながら、と計画しているが、いまから楽しみだ。

(2004年3月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 カイロ治療での結果が良かったので,気分的にもかなり楽になった。ときどき痛みが出るものの、それは軽いものである。ネット接続の申し込みをしてから、玄関に設置してあった電話機を書斎に移動するのと,クーラー用の電源を確保するための工事も終わった。知人の忠告にしたがい、わが家に唯一のクーラーを設置することにしたのである。冬に寒い家は、夏になると、ものすごく暑くなる。だからパソコン機器に影響が出るらしいのだ。ぼくは夏が大好きで暑けりゃ裸になればことはすむし、暑さで頭がボ〜となれば冷蔵庫に頭を突っ込みゃあ、バッチリとリセットできるのである。それにくらべるとIT機器などは裸になれないから不便なものだ。
 NTTから接続完了の電話がきて,いよいよパソコンとの接続である。機械いじりは好きだから、モデムとセキュリティルータからパソコンへの接続も簡単にすんだ。電源をいれネットの接続、ルータや PCのユーザー登録もつつがなく完了した。NTTからいただいた資料や取り説を読んで勉強したからな〜。簡単,簡単。ところが、そう甘いものではないことを思い知らされた。PCについているソフトや、べつにインストールしたワードとエクセルも、詳しい使用方法はネット上のヘルプ機能で見るのである。ぼくが無茶苦茶いじるものだから、iBookちゃんは七色の風車を回して考えこんじまう。あげくの果てに固まってしまうのだ。ぼくの頭のなかだって金色の風車が回っていて目眩がしている。手強い!。
 
 


  日の移ろい
11/08 (火)

  退院後281日  術後295日
健康で元気なときには,時間というものが、ある巾をもった道路のようなもので,その時間という道路を自分が歩いている感覚であった。ゆっくりと、あるいは疾走しながら。ところが闘病生活では,佇んでいる自分の前を、時間だけが他人事のように足早に通り過ぎていく。不確かなセピア色に乾いた日の移ろい。

 1日(火)晴 : 朝から冷え込んでいる。寒さのためか左半身がモヤモヤしていて自分の体のようには感じられない。朝食後はダラダラと終日ベットですごす。夕方に裏のおばちゃんから炊き込みご飯ときんぴらのお接待。果報は寝て待ての日だった。

 2日(水)晴時々曇 : 洗濯と掃除それに食材の買い出しで釣瓶落としの日が暮れた。夕食のカキ鍋で体を暖めてから、ヴィム・ヴェンダースの「夢の視線」を読む。また「ベルリン・天使の詩」と「夢の涯てまでも」を観たくなった。

 3日(木)曇 : 朝風呂に入り体を温めてから、週刊闘病記の更新をする。きょうで、やっと3ヶ月遅れを取り戻した。お祝いに週末まで禁煙を解除する。タバコ屋のおばちゃんから自家農園で穫れたネギのお接待。すき焼きの夕食。やせ蛙さんからメール。

 4日(金)晴 : 歯科医院に出かけ差し歯2本をいれる。デジカメの変わりだから噛み心地は悪くはない。先生から歯の保護のためにナイトガードを勧められる。来週に型取りの予定。左手はあいかわらず、うずいている。

 5日(土)晴 : リハビリ散歩に出るが5分ほどで切り上げた。春と夏に親しかった風景が妙によそよそしく素っ気ないのだ。賑やかな街歩きに変更する。古本屋と中古レコード店に寄り画廊ジュライで大休憩。40分歩いてギャラリー睦に到着。 Tさんの陶芸展を観る。二駅ほど歩いたが、操り人形のようでギゴチなく左膝がカクカクしていた。 Tさんたちと3時間ほど話しこむ。駅ビルで野菜カレーとサラダの夕食。自宅に帰ると左足が熱くなっている。やせ蛙さんと下戸さんから近況報告のメール。

 6日(日)曇ノチ雨 : 朝から、うすら寒い。頼まれていたアイロンの修理をはじめたが、ハンダゴテが壊れていて使えない。ママチャリで買いに出かけるが、途中のお宝マーケットに寄り道。あれこれ品定めしたり,コミックの立ち読み。なつかしいな〜「特攻の拓」と「あしたのジョー」2時間半の道草。うす暗いのでハンダゴテを買って急いで帰宅すると雨が降り出した。夜に斜め前のご隠居の息子さんがゴールドキウイを届けてくれる。ご隠居が育てた木から収穫したものである。4日後が食べごろとか,ご隠居を偲びながらいただこう。

 7日(月)晴 : 洗濯と掃除。アイロンの修理。きょうから禁煙再開,罰金として五百円玉8枚を「つもり預金」へ。午後食材の買い出し。あっけなく一日が終わる。

 


  M君からの手紙
11/11 (金)

  退院後284日  術後298日
先月,友人の M君から手紙が届いた。文が表まで書かれているハガキを見て、ぼくは息をのんだ。なんともつらいい手紙であった。自力で一歩も歩けないまま,痛いまま、治らないままに退院します。歩行器,車椅子の生活が一生つづきます。言葉も無い。ぼくもそうなる可能性があったのである。脳外科に駆け込むのが遅れていたら、確実に四肢麻痺になっていただろう。幸いにも脊髄専門医の先生に早期に手術をしていただいた。後遺症は残るものの日常生活に不都合はない。最後に、メールではなく手紙で返事をと書いてある。もう数週間にもなるのに、ぼくはまだ、その返事の手紙を書いていない。あまりにも重い内容だったからである。
 M君と、はじめて出会ったのは20代の前半で、それは、桜の樹の下の出会いであった。石蕗庵から15分ほど歩いたところに、ぼくの住んでいたアパートがあり、その近くに大きな桜の樹があった。それまで話したことはなかったが,ぼくが満開の桜の樹の下に佇み「梶井基次郎の言葉は本当だな〜」と声に出していたら、通りかかった M君が「死骸が埋まっているからね」と呟いてニヤリと笑った。これが最初にかわした言葉である。
 彼は近くの別荘の管理人をしながら詩や絵を描いていた。ぼくは先輩の Kさんから部屋が空いたからと誘われ、先輩と同じようにアトリエ用と居室の2部屋を借りていたのである。 M君とは、読んでいた本もジャズや映画の好みも似通っていたから気が合ったのだろう。休日前夜から別荘の別棟を改造したアトリエで、Kさんや仲間のH君、M君の東京の仲間たちが集い、夜明かしで宴会をしていたのが、なつかしく思い出される。
 その数年後に M君は東京の大森に転居する。本格的に版画に専念するためである。芝浦の波止場人足をしながら版画をつづけていた彼を、ぼくらは芝浦のランボオと呼んでいた。やがてオブジェを封入した箱付きの限定版詩画集「北方の潜水艦」を制作、その個展を銀座で開く。版画家として注目を集めたデビューであった。
 その後に福生のジャパマーハイツに移り住み本格的に活動をはじめる。村上龍さんなどが住んでいたころである。ぼくも都合がつくと休日前夜からアトリエを訪問していた。ハイツにはミュージシャンや画家、詩人やオブジェ作家など多くのアーチストが住んでいて,週末になると必ずどこかの家でパーティがあった。楽しくも刺激的で熱い時代であった気がする。その後ハイツが取り壊しになるので、彼はまたまた転居することになる。
 房総の岩井にアトリエを借り東京の自宅と半々の生活で波シリーズに取り組んでいたが、そのころから彼の体をリュウマチという病が少しずつ蝕んでいたのである。手首,肘,膝,足首と人工関節が入り、昨年の個展後の11月に足首の固定手術。今年の4月に2度目の腰のヘルニア手術をしたと奥さんからメールをいただいた。それから先月のハガキでの連絡である。二人とも同じような道を、あとになり先になりながら歩いてきたような気がする。がんばれなどと他人行儀な言葉はつかえない。彼には,在るがままを受け入れ、新たな人生の幕をあげるようにとしか、いえないだろう。ぼくがそうしたように。あしたこそ返事の手紙を書こう。あの檸檬の万年筆で・・・。


  続 携帯電話
11/19 (土)

  退院後292日  術後306日
最近は電車に乗っても会話をしている人をあまり見かけない。あいかわらず車内の皆さん携帯電話を手にしている。先日も隣に坐った女の子の仕草を見ていた。その指使いを見ていると,指はまるで別の生き物のように見える。達者なものだ。前に座っている男の子も負けず劣らずの指使い。ときどき顔を上げては、隣の女の子と目くばせしたり笑ったりしている。どうやら二人はメールで会話しているようだ。最近は目の前にいてもメールで会話しているらしい。そういえば,いつだったか本屋の奥さんとダベッテいるときに、本を買ったおばちゃんが「最近は亭主の顔も見たくないから、メールで会話してんのよ」と言っていたから,どうやら若者だけではなさそうである。

 春に携帯のメールアドレスを変えた。それまで使っていたメールだと無料だが,送受信の文字数に制約があり不便だったからである。自分のアドレスも字数に含まれるらしく、件名やあいさつ文をいれると、本文は30文字ぐらいしか残らない。まるで短歌や俳句の世界だ。それなりの楽しみもあるが,受診メールが困る。文の途中でカットされている場合が多く,まさか電話で聞くわけにもいかない。そこで有料のWebEメールに切り替えた。アドレスをそのまま使ったら、翌日からHメールのオンパレードである。どこが、うずこうが悶えようが、ぼくには関係がない。自分の後遺症のうずきで手一杯なのだ。それに毎朝の30件ほどのHメール削除には、まいってしまった。
 サイトに電話すると、そういうHメールは機械でランダムに自動送信しているとのことである。アドレスを半角英数字の20文字に変えた方がいいとアドバイスされた。呪文のようなアドレスを登録すると確かに Hメールはピタリと止んだ。だが、出先で知り合いの作家から「メールのアドレスを」と言われたときに困ってしまった。自分のキャッシュカードの4桁の数字さえ思い出せないことがある、ぼくが、ははは。呪文のような20桁がわかるはずがない。パニクって携帯を操作しながら調べていた。ぼくのアナログぶりを察知した相手は、名刺を差し出しながら「このアドレスに空メールしてください」と笑いながら言う。まいったなぁ〜そんな手があるとはね。

 初夏のころだったか,パーティの帰りに友達のMちゃんと駅まで一緒に歩いているときだった。「あたしって自分にメールしてるの、変かなぁ〜、可笑しいでしょう」Mちゃんが話しかけてきた。「エッ、自分に!」・・・そうか、そんな使い方があるなんて、ぼくは思いもしなかったし考えもしなかった。「変じゃない,変じゃない,すばらしい」返事をしながら彼女のユニークな発想に感心してしまった。「ほら、絵でエスキス描くでしょう,そんな感じ。浮かんできた言葉や思いついたことをメールでね」と具体的に話してくれた。
 それからぼくも,自分のPC宛にメールをしている。旅に出た三代目ボス猫ブチに近況報告したり,カマキリのサユリちゃんにラブレター書いたりしてね。これがおもしろくて結構ハマるのよ。茶店や図書館、朝のベットの中から送信して遊んでいる。メモ帳もいらないし,日記の変わりにもなるし,とにかく便利だ。Mちゃんのおかげで保険証書のようだった携帯電話は、今では、ぼくの遊び道具に変身しているのである。


  サラバ座骨神経痛
11/25 (金)

  退院後298日  術後312日
(2004年4月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 最悪の場合を考えてのインターネット導入であった。しかし、アナログ人間のぼくには理解するのが大変である。ラジオの放送が電波をキャッチして聞えてくるのは理解できる。だが、テレビが同じような電波で映像が映るのが納得できないでいる。理論的には理解するのだが,心のどこかで,それは実像ではないと囁くのだ。それがアナログ人間たるゆえんなのだろう。ぼくには猫たちが何を考えているかのほうが,はるかに理解しやすいのだ。
 こうなった原因も思い当たらぬでもない。勤め人のころに、映像分析をしていた時期があった。およそ洋服ダンス2個ほどもあるコンピューターで、プログラムも磁気テープでいれていた。簡単なプログラムは組めたが、複雑なものになるとお手上げで、専門家にお願いしていた。取り説も分厚い英文のもので、トラブルがあると英辞書を引きながら頭を抱えていたのである。3年ほどで開放されたが、それ以後はパソコンなどには拒絶反応を起こしていた。
 しかし、必用とあれば又いじるしかない。なんとかHPの閲覧やメールの送信はできるようになったが、その他のものは当分は必要ないので放棄する。また拒絶反応が起きるとまずいから、のんびり取り組むことにしよう。これで、いつ動けなくなっても外部とのコミニケーションがとれるし、気がかりなものが片づいたので気が楽になった。

 4月に入ってから体の調子もかなりいいので、中旬のカイロ通院は楽しみであった。前回までは駅の手すり磨きをしていたが、手すりを使わずに階段を上り下りできるようにもなっている。これでボチボチ軍手ともオサラバできればありがたい。
 カイロでは,いつものように治療前の神経状態の測定、前後姿勢,横向き姿勢,坐姿勢の測定、ストレッチャー上での触診。治療では前回よりも頭の調整位置が低い。これは期待が持てそうだ。治療後にベットで安静にしているときも、目が冴えて眠れない。また神経測定をして、先生から結果の説明があった。「もう首から下は正常で座骨の方も大丈夫ですよ」と言いながら、初診どきのチャートと先ほど測定したものを見せてくれた。地震波のようにブレていたものが、ほぼ直線に近くなっている。「首のところのブレが変化しないのが気掛かりですが,もう少し治療をつづけて,様子を見ましょう」とチャートの首のあたりを指さした。「もう座骨神経痛から開放されただけでもありがたいです」お礼を言い、1ケ月後の予約をしてカイロをあとにした。先生から、もう大丈夫ですとよと言われたら、気分や見える風景もガラリと変わるし、足取りだって軽くなっている。それに帰りの電車もすんなりと坐れてしまった。座骨が痛くてヒーコラしているときには坐れず、なんとも皮肉なものだ。
 自己治癒能力での回復とはいえ、悪夢の四足歩行から2年が経っている。独り身だからいいものの、家族でもいたら大変なことになっていただろう。とにかく最悪の場合を考えていたので,ある意味では意外な展開であった。これで下旬あたりから,2年ぶりの歩行訓練を再開できそうだ。終点の乗り換え駅で降り、レストランで中快祝いの食事をする。きょうは特別な日だからワインをグラスで頼み、1人で乾杯。サラバ座骨神経痛! ははは。いい響きだ。


  日記抄
11/30 (水)

  退院後303日  術後317日
18日(金)晴 : 歯科医院に出かける。歯の保護用ナイトガードができてきたのである。先生の話によれば、ぼくの場合は眠っているときの歯ぎしりが原因で、歯が駄目になるらしい。無意識だから相当の顎力を発揮しているにちがいない。歯ぎしりは横の動きが主体となるので歯が摩耗しやすい。それを防ぐためと、顎関節症の予防のためにナイトガードをつけるのである。シリコンゴム製で上の歯にかぶせる、いわばマウスピースのようなものである。こんなの着けて寝たら、ボクシングの夢でも見そうな感じだ。今夜はノラ猫バットマンの猫パンチとの、対戦かな。

  20日(日)晴 : 今朝も冷え込みがきびしい。左の手のひら全体がしびれていて,手首も締めつけられるような感じだ。左半身も筋肉が固まっているようで,動きもギゴチない。今月に入ってからこのような状態がつづいている。朝昼晩の3回は風呂に入って、体を温めないと体が動き出さない。きょうも朝風呂に入ってから掃除。昼風呂に入ってからホットカーペットとコタツのセッテングをする。東京国際女子マラソンの実況を聞きながら石油ストーブ3台の整備。優勝した高橋尚子選手のインタビューで「・・・もう二度と来ない時を,充実した一日にしてください」の言葉が印象的であった。たぶん健康で元気なときだったら、もっと感動しただろう。充実とは,心と体が健康でなければ得られないことだからである。だが闘病中の身とはいえ、二度と来ない時は同じである。どう過ごそうが時は必ず去っていく。くやしいけれども、充実という感じを忘れてしまった。

  24日(木)晴 : 今日は2階にベランダを設置する工事日。職人さん一人で、しかも一日で完璧に施工してしまった。久しぶりに職人らしいプロの仕事を見せてもらった。以前にリホーム業者に室内を頼んだときにはハンパ職人の仕事だったため、自分で施工し直したことがある。プロの仕事は見ていても気持ちがいい。無駄な動きなどひとつとしてないからだ。バルコニーの設置は、健康なときには気にもしなかったが、いざ体が不安定な状態になってみると危険だからである。下に屋根などないから転落したら一巻の終わりだ。先日も窓ガラスの掃除を試みたが、怖くなって断念してしまった。これで3年ぶりに窓ガラスを掃除できるようになった。ついでに心のバルコニーも必用かもしれないな。

  28日(月)晴 : 朝から風が強いが、南からの風のせいか暖かい。ストーブの整備も終わり、用意万端整えたら暖かくなった。思いとは反対に動くのはぼくの病気と一緒だなぁ。先週から目の状態が今イチで、後遺症とのW凹で、ははは、沈没気味だ。そんな体調ながらも、年末の掃除をボチボチはじめている。健康なときには1〜2時間で終わるものが、たっぷり一日がかりとなる。歯がゆくて仕方がない。これがふつうなんだと思わないと神経がおかしくなる。3年半もイタタの修行をしているのに、喝!、まだ捨て切れない何かがあるようだ。凡人だから仕方がないが、もう少し自分に素直になりたいものだ。


▼ 2005年12月
  ニセ・イタタ考
12/08 (木)

  退院後311日  術後325日
先月の中旬から神経症状の第2波が訪れている。季節の変化で、筋肉や神経が緊張するのが影響しているのだろうか。5月中旬からの第1波から2回目の症状である。首周辺の鈍痛に左背中と左腹部の圧迫感があり、それに左手の痺れと左足のコワバリ感。これは手術前の脊髄症状に似ている。全体的な神経症状でいえば,第1波よりは軽めである。前回は身の置き所がなくてワオ〜と吠えていたが,今回はつらいものの、身の置き所はそれなりにある。神経症状としての後遺症は、季節変化の周期で少しずつギアチエンジしながら回復に向かうのだろう。
 椎弓拡大手術した箇所は外科的には何の問題もないことから,これらは神経内科的なものに問題がありそうである。手術前の脊髄症状が脳のどこかに「痺れや痛み」の記憶としてインプットされているのかもしれない。どうも神経細胞などというものは、一筋縄ではいかない代物のようである。それは想像を超えるような仕組みにできているらしい。
 昨年の8月に、斜め前のご隠居のお見舞いに行った。左足の切断手術を受けたのである。そのご隠居が、切断して存在しない足の指が痛くなったり,痒くなったりすると話してくれた。脳はまだ存在するものと記憶しているらしい。何とも不思議なことである。
 後遺症としての神経症状が出てくるのは,脊髄の圧迫の程度と圧迫期間に比例しているように思われる。さらに体験的にいえば、それは術後の経過期間に関係なく、気圧や季節の変化に連動しているように感じられる。それが引き金になって,「痺れや痛み」の記憶を再現させているように思える。つまり自分自身でつくりだす擬似的な「嘘の痺れと痛み」である。これも個人差がありそうだ。「痺れや痛み」をまったく記憶しないで回復するタイプ。記憶しても周期的に記憶の下層に移行して、やがて意識の中から消えて回復するタイプがありそうだ。外科的な所見にはまったく問題がないのに、擬似的な「嘘の痺れと痛み」が出るのは、記憶のメカニズムが解明されればハッキリするだろう。そうなれば、催眠療法などで「痺れや痛み」の記憶を消すことも可能になるかもしれない。いずれにしても、専門医も首を傾げる「嘘の痺れと痛み」が存在することは確かである。
 外科的な手術が完璧に成功しても,こういう症状が出ると、患者はかなりつらいことになる。手術前の脊髄症状の記憶が再現されるわけだから、もしかしたら手術は失敗したのではないか。「嘘の痺れと痛み」を現実のものと思ってしまうからである。こうなると、将来のこと仕事や家族のことを考えると不安になる。または眠れなくなるなどの精神的な病を引き起こしかねない。したがって術後のきちんとした心のケアが必用だろう。
 これは、ぼくの素人的な私見である。ぼくには、そう考えることでしか理不尽な「痺れと痛み」に対する自分自身を,納得させられないのである。専門家の話を聞いてみたい。
 以前に腰のヘルニア手術をしたが,退院後は同じように季節の変わり目に神経症状が出ていた。それもだんだん軽くなり,その症状が意識の中から完全に消えたのは,退院後1年半、術後2年目であった。頸椎の手術では、この神経症状が回復するのには少なくとも3年はかかるだろうと覚悟している。


  さびしい庭
12/14 (水)

  退院後317日  術後331日
師走にもなると、石蕗庵の庭には生き物の気配はない。春から夏と初秋までの賑やかさがまったく消え失せて,妙に静まり返っている。コガネグモやジョロウグモたちも、いつの間にかその姿を消している。トカゲの紫や銀ちゃんなど7匹の仲間も,庭石の下で冬眠してしまったのだろう。夏から秋にかけて遊んでもらったカマキリのサユリちゃんも,楓の枝に卵を産んでから、10月の初旬には姿を消してしまった。
 庭の生き物たちに名前をつけて遊んでいるが,さすがのぼくもダンゴムシには降参だ。何百匹もいるから見分けがつかない。日本ダンゴムシ協会のHPを閲覧すると、同じように見えても、模様や歩き方,それに性格もちがうらしい。白色,ワイン色,赤いダンゴムシの写真を見たが、ぼくはまだ本物を見たことがない。そのダンゴムシさえ姿が見えない。
 最近はノラ猫のバットマンも顔を出さない。先月,雨の日の翌日に叱ったのが原因なのだろうか。濡れ縁を泥だらけにしたので、人間の言葉は理解できなかろうと、ツワ式手話で小言を言ったのだ。闘病中の身で拭き掃除はつらいから,濡れ縁にあがるときには雑巾で足を拭いてからあがれってね。雑巾を指差しながら手話してたら,やつは目をまん丸にしてぼくの身ぶりを見ていた。それ以来ピタリと姿を見せない。なんだか、ぼくの手話の小言がもろに効いてしまったらしい。シマトラも駆け落ち中だし、わが家の庭もすっかりさびしくなってしまった。

(2004年4月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 4月末に、座骨神経痛が完治したと実家に電話報告する。義姉の話によれば、兄も首のあたりや肩と腰の調子が悪いらしい。整形外科で腰の索引をしているが、症状はあまり変化がないとのことである。座骨神経痛ではないが,体のバランスが狂っているのかもしれない。話を聞いた兄は、ぼくと同じカイロに通院することになった。

 (5月) 初旬から2年ぶりに早朝の歩行訓練をはじめた。川沿いの遊歩道までの往復1時間のコースだ。2年前の朝練の半分の距離で、散歩がてらの、ゆっくりしたウオーキングである。体調はきわめて良好。
 中旬あたりから左手のシビレが再発した。2年前の3月末に,左手の薬指と中指の2本がしびれていた。だが、4月の悪夢の四足歩行からは座骨の痛さで、指のしびれは意識の中から完全に消えていたのである。それが座骨神経痛が完治して1ケ月で、また2年ぶりにしびれの感覚が戻ってきた。どこかで神経回路がパチッと切り替わったような感じだ。今度は小指と人差し指までしびれていて、合わせて4本の指がしびれている。それは、強いしびれではなくチリチリ程度のもので、それ以外はきわめて快調であった。

 (6月) 雨の日以外は毎朝のウオーキングを続行。足腰の筋肉も元に戻ったようで,左手のチリチリしびれ以外は絶好調である。この調子だと、2年前に延期したお遍路旅に出かけられるかもしれないと思っていた。


  再浮上
12/16 (金)

  退院後319日  術後333日
昨日から神経症状の第2波が治まった。身体の筋肉や神経が,厳しい寒さにも慣れてきたせいなのだろう。左手の軽いしびれ以外は、元の状態にもどった感じである。3週間ほど沈没していたが、症状が治まると,あっさりと浮上できた。予想していたとはいえ,梅雨前の第1波のときと同じで、憑き物が落ちたような感覚である。沈没していたせいで年末の予定がすっかり狂ってしまったが,まだ半月もあるから何とかなるだろう。せめて部屋の掃除ぐらいはきちんとして、新しい年を迎えたいものだ。
 きょうは久しぶりに散歩に出かける。団地のなかを一周する程度の軽いものである。ぶらぶら歩きの途中でシマトラの姿を見かけた。どうやら振られて帰ってきたらしい。冬毛になったせいか太って見える。声をかけたが、まったく無視されてしまった。何やら性格まで変わってしまったようだ。近所の猫好きのおばちゃんに聞いたら、しばらく姿が見えなかったが、最近は毎朝のようにエサを食べにくるらしい。バツが悪いのか石蕗庵にはまだ顔を見せないが,あるいは新しいねぐらを確保したのかもしれない。

(2004年7月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 隣のご隠居が,くも膜下出血で入院してしまった。病院にお見舞いに行くと,あした退院すると言う。高齢にもかかわらず手術後10日あまりで退院とは、さすが怪人ご隠居である。医者も驚くほどの回復ぶりだったらしい。
 下旬になって体調に変化が出てきた。左手のしびれが,手のひらと手首のあたりまで拡大してきたのである。それと左膝の上にも軽いしびれが出ている。2年前の座骨のときとは、少しちがうようだ。とりあえず、朝の散歩を一日おきにする。
 実家に電話を入れ,兄のカイロ治療の様子を聞く。首と肩の痛みは治まったらしい。だが、腰の痛みと足のしびれは、あいかわらず変化がないようだ。

 (8月) 左手のしびれが肘のあたりまで広がってきた。左膝の上の軽いシビレもコワバリのような違和感がある。念のためウオーキングを中止する。通院したカイロで神経測定の確認をすると、首のあたり以外はまったく正常とのことである。いま出ている症状がどこからなのか、次回まで様子を見ることになった。
 斜め前のご隠居を見舞う。左足の切断手術をしてから,近くのリハビリセンターに転院されてきたからである。久しぶりに顔を見ると少しやせたようだ。でも、思っていたより元気でホッとする。車椅子の練習やリハビリで腕が痛くなって大変らしい。家の周りのことを尋ねたり、とにかく早く家に帰りたいと話していた。
 斜め前のご隠居を見舞った4日後に,隣のご隠居が脳梗塞で倒れられた。買物の出先で倒れ,救急車で病院に運ばれたようだ。即,手術をして命に別状はないとの話である。あまり無理をするなと忠告していたのだが,自分の身体を過信していたのだろう。
 もしかしたら、ぼくの頭の中も壊れているのかもしれない。左半身にしびれや違和感があるのは,脳梗塞の症状に似ている気がする。考えると,ますます不安になってくる。


  不安な日々
12/21 (水)

  退院後324日  術後338日
(2004年9月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 9月に入っても左半身の異変はつづいている。左手のしびれは肘までで,それ以上は拡大する様子はない。だが、手首のあたりが締め付けられるような感じと,左足は軽いしびれのほかにコワバリ感もハッキリ出てきた。それと頻尿も気になるし,ますます不安がつのる。

 中旬に知人の車で,隣のご隠居のお見舞に出かける。受付で病室を聞き,二人で病室に入ったが見当たらない。部屋にいた看護婦さんに尋ねると、ぼくたちの立っている横のベットを指さした。黙々と食事をしている老人をよく見ると,ご隠居である。我々を見てもなんの反応も見せない。なんだか人相まで変わってしまっている。声をかけると、我々の顔がわかったのか話しはじめた。左半身が麻痺していてリハビリが苦痛だとか,自分の子供さんのことやらを話してくれるのだが,会話というより,ご隠居が一方的に喋る展開である。お見舞を言ってから失礼したが,我々が本当にわかっていたか疑問だ、と知人は呟いた。ぼくも同感だった。あらためて脳梗塞とは怖い病気だと思いしらされる。

 月末に代々木のカイロに出かける。治療のあとで,先生に現在の症状を話すと「体のバランスは正常にもどっています。症状は外科的な治療を要するところからと考えられるので,総合病院で診察を受けてください」と勧められる。カイロ治療は,体のバランスが狂って出てくる神経症状を,バランスを是正することで回復させる治療。それ以外は,ここでは治療できません。とも話されたが、まさに納得するお話である。ここのカイロには1年10ヶ月ほど通院したが,つらかった座骨神経痛を完全に治していただいた。なんとも不思議な治療だったが、とても貴重な体験であった。

 (10月) 総合病院に行く前に、頭と首の病気についてネットで調べることにした。症状から考えると,頭では脳梗塞と脳腫瘍が当てはまりそうだし,首では頸椎ヘルニアが危なそうである。新聞社の医療ページや病院関係,個人のHPなど、およそ4日ほどネット漂流を続けているうちに,楽楽さんのHPにたどり着いた。「みんなヘルニア仲間」に先輩諸氏が書き込まれた過去ログを、2日ほどかけてじっくりと読む。なるほど、脳外科であれば頭と首の両方が受診できそうだし、脊髄専門医もいらっしゃるかもしれない。「キーワードは脳外科」これが過去ログを読んで得た,ぼくの結論であった。
 翌日の7日に,近くにあるK病院の脳外科を受診する。先生に今までの経緯と現在の症状について説明する。やはり頭と頸椎が疑わしく,まず頭から検査をすることになった。最近はMRIが混んでいるとのことで、頭のレントゲンを撮り、MRIの予約をして帰宅。18日に頭のMRIを撮り,24日に画像診断。画像は年相応なものであり、特に異常は認められないとのことである。もしかしたら、頭が壊れているのではないか、と心配していたのでホッとした。これで首が悪いことが確かになってきた。28日に首のMRIを撮り、画像診断は来月4日となる。首の中がどうなっているのかが心配だ。


  首が壊れている
12/23 (金)

  退院後326日  術後340日
(2004年11月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 寒さのためか体調はかなり悪化してきた。頻尿にもまいってしまう。夜中に5〜6回も起きると,眠っている暇がない。トイレに行っても必ず出るとは限らないのだ。チョッとしか出なかったり、なかなか出なかったりで、うんざりする。排尿の爽快感がまるでない。左足のしびれとコワバリ感も強くなっている。先日、買い物に出た途中で転倒してしまった。自分では足を上げているつもりなのだが、実際には足が上がっていなくて躓いたらしい。脳からの指令が、きちんと左足の神経に伝達されていないのだろう。神経回路のトラブルかもしれない。左手はあいかわらず強いしびれがつづいている。

 4日にK病院に出かける。先月下旬に撮ったMRIの画像診断の日である。予想したように頸椎に問題があった。先生は「脊髄が圧迫されて細くなっています。それに脊髄に点々が見えるでしょう、脊髄の損傷部分です」と、指さした。細くくびれている脊髄画像を見ていると,自分の身体に出ている諸症状が、なるほど、と納得できるほどのものである。頸椎が少し変形していると指摘された。自転車で転倒して頭を打ったことがある、と話したら納得されたようだ。左手のしびれや左足のしびれと違和感,頻尿なども脊髄圧迫が原因とのことである。これは脊髄の専門医である、C大病院のK先生に診てもらいなさい。と紹介状を書いてくださり、レントゲンとMRIも持参できるよう、貸し出しの手配もしていただいた。看護婦さんからも、C大病院の受付は9時からで診察は午後になるから、お弁当やら雑誌など持参した方がよいとのアドバイスをもらう。

 K病院を受診した翌日から,手術体験者が公開しているものや,各地の病院で公開している頸椎のレントゲンとMRI画像を調べて、手術前の画像をダウンロードする。C大病院のK先生の診断を受ける前に、患者として自分なりの予備知識が必用だろうと考えたからである。K病院から借りてきた画像と、ダウンロードした数十枚の画像を子細に比較する。レントゲン画像は素人だから判断はむずかしいが、MRI画像ではそれなりに判断できる。見れば見るほど、ぼくの脊髄画像はひどいものだ。手術をした人の、術前の画像とくらべても遜色がない。感心している場合ではないが、これはもう手術しかないと腹をくくる。
 頸椎の病気と手術に関することも調べる。脊髄を圧迫して神経症状を出現させるものとしては、椎間板ヘルニア,骨棘形成、靱帯骨化など。脊髄の圧迫をとる減圧手術は、前方からの前方固定術後方からの椎弓形成術があり、それぞれ長所と短所があるとのことである。圧迫状態にあった手術方法を選択するのがベターらしい。各地の病院で公開されている資料を読んでの推測だが,ぼくのMRI画像を見ると圧迫箇所が広範囲に感じられるので,たぶん後方からの手術がいいように思われる。正式な病名はわからないものの、借りてきたMRI画像のおかげで、自分の置かれている状況を把握できた。あとは脊髄専門医であるK先生の診断をあおぐだけである。


  手術の決断
12/26 (月)

  退院後329日  術後343日
(2004年11月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 10日にK病院から借りた画像写真と紹介状をもって、C大病院へ出かける。受付で初診手続きをしてから脳神経外科受付へ,予想していたように診察は4時間半後である。血液検査がすむと,CT検査まで3時間ほどある。大学病院ははじめてだが、患者の多いのには驚く。受付や待合室、各科の受付前の長椅子は、ほとんど患者で埋まっている。まるで病のステーションのようだ。持参した雑誌を読みながら時間をつぶす。患者ラウンジでお弁当を食べてから,CTスキャン撮影,再び脳神経外科の受付前で待機だ。やがて判明することを考えると少しずつ緊張してくる。

 診察室に入ると、K先生がにこやかに迎えてくれる。なんだか緊張が一気に解けて楽になった。挨拶してから、今までの経緯と現在の症状を説明する。先生はパソコンのディスプレイとぼくの顔を見ながら,話の内容を手元も見ずにキーボードに打ち込んでいく。す、すごい。ぼくの右手人差し指1本の打ち込みとはエライちがいだ。
 話を聞き終わった先生は,頸椎のレントゲン画像から説明をされる。ぼくの脊柱管は狭く,わずかな変化でも脊髄症状が出やすいとのこと。これは遺伝で先天性脊柱管狭窄症とのことである。ふつうの脊柱管画像と対比させながら、ノギスを使い、数値的にわかりやすく説明してくれた。MRI画像では,圧迫箇所は広範囲で、C4はとくに圧迫がひどい状態脊髄圧迫は靱帯の骨化が原因とのことである。わずかに確認できる点々状の損傷部分は元には回復しないらしい。次にCTスキャン画像で説明してくれる。圧迫原因の形態把握により、出ている脊髄症状の裏付けができるとのこと。先生が指し示す画像部分を見ると、靱帯骨化部が脊髄を左側から圧迫しているのが確認できる。左半身に脊髄症状が出ていたことと画像所見が一致したのである。先生の時間をかけた、ていねいな説明ですべてが納得できた。
 先生の診断は,後遺症を残さないためにも、早期の手術が望ましいとのことである。すでに自分なりに決めていたので異存はない。その場で手術をお願いした。手術は後方からの、筋肉を温存した椎弓形成術との説明を受け,その資料をいただく。手術予定は来年の1月と決まり,入院前の検査について打ち合わせをする。最新のMRI情報を得るために24日のMRIを予約。当日は頸椎と胸部のレントゲンも撮る予定である。

 入院までの生活上の注意点についても説明を受ける。狭窄症で脊髄圧迫がある場合,軽微な衝撃でも四肢麻痺の危険性があるので注意する。自転車に乗らない。人混みに出ない。特に後ろからの追突に気をつける。転倒しない。外出にはソフトカラーを装着すること。先月から3回ほど躓き転倒している、不本意ながらも杖を使うしかないようだ。
 病院の売店でソフトカラーを購入する。入院予約をして,入院に関する書類一式をもらい帰途に。途中で転倒防止用の杖を購入する。ジーパンに合わせた明るいブルーメタリックの杖である。病院の売店にあったものは、色がお年寄り向きのようで気に入らなかったのだ。不本意ながら使う杖である。せめて色ぐらいは、こだわりたい。


  忍者生活
12/28 (水)

  退院後331日  術後345日
(2004年11月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 4日のK病院脳外科での診断から,1週間で思わぬ展開となった。C大病院脳神経外科のK先生の初診で、即,手術と入院予約となったのである。これは、もしものことを考えて導入したインターネットのおかげである。あらかじめ情報が入手できたし,それらを自分なりに分析し,心の準備もできていたからである。だから、手術を決断するのに悩みも躊躇もしなかった。むしろ、決断を遅らせて将来的にリスクを負うことの方が怖かった。手術そのものを心配しても仕方がない。それは自分の及ぶところではないからだ。先生を信頼してすべておまかせである。それより入院まで無事にすごせるかの方が心配であった。手術前に四肢麻痺にでもなったら、それこそシャレにならない。
 実家に電話して手術をする旨を伝える。義姉の話によれば,兄もカイロで,病院での診察を勧められたとのこと。病院での診断は、ぼくと同じ狭窄症と靱帯骨化症だった。前方固定の手術を勧められているが、決心がつかず悩んでいるらしい。お気楽人間のぼくとちがって、兄は慎重派だから無理もない。

 24日、2週間ぶりにC大病院に出かける。座骨神経痛を患っていた当時の、怪しげなイタタ、ファッションが復活した。背中にデイパック、ポチポチ軍手に着古しパーカー,ジーパンにヨレヨレ帽子。今度はその正装に、首にソフトカラー、左手にはブルーメタリックの杖が加わっている。駅の人混みの中でも完全に浮いている。したがってぼくの周りには,あまり近づく人もいない。だが、注意は怠らない。うしろから追突されると危険なので、キヨスクの壁に張り付いて電車を待つ。まるで忍者になったような気分だ。電車が入ってきても,降りる人が出るまで待ってから移動する。無意識のときに,ドンッとぶつかられるのが、いちばん怖いらしい。地雷を踏んだらサヨウナラではないが、まるで爆弾でも背負っている気分だ。最近は意識の中から四肢麻痺の言葉がはなれない。そのせいか、人の気配には妙に敏感になってきた。はははは。忍者としての資質に目ざめたのかもしれない。
 きょうは午後からの受診予約だったが,早めに家を出てきた。入院する脳外科病棟の事前調査のためである。病院案内のパンフレットを手に、病棟の各部屋,トイレや洗面所の位置,食堂などをチエック。看護婦さんに入院時に必用なものを再確認する。
 受付後に頸椎と胸部レントゲンを撮る。MRIの撮影後に、受付前の椅子で入院部屋の検討をしながら診察を待つ。診察室に入ると、二度目だというのに、数年も診ていただいているような雰囲気。先生のお人柄なのだろうか、顔を見ただけで癒されるようだ。先ほど撮ったMRI画像で説明しながら、圧迫している骨化部は後縦靱帯が骨化したもので、国の指定難病,後縦靱帯骨化症であることを告げられた。圧迫箇所が一箇所であれば前方固定がよいが、ぼくのように数箇所に及ぶ場合は対応できないので、後方からの椎弓形成術による減圧が最適とのことである。比較的圧迫の少ないところが、後で肥厚化しても対処できるし、将来的に再手術のリスクが少ない後方からの手術に再納得である。
 入院までに特定疾患の申請をするようにと、申請書の入手先、申請先などていねいに説明していただいた。入院部屋の希望を聞かれたので、先ほど検討した、南向きの4人部屋をとお願いする。入院どきに空きがあれば入れるとのことである。来月のスケジュールについて打ち合わせをする。申請書に添付する診断書は、来月1日の受診日に書くので、それまでに申請書を用意すること。入院前の検査としては、消化器内科と脳神経内科の受診を予定。血液検査の結果で脂肪肝の疑いがあるのと,排尿障害について検査するためである。あと1ケ月少々は忍者生活をつづけなければならない。とにかく四肢麻痺は怖いからね。


▼ 2006年1月
  越年日記
01/07 (土)

  退院後341日  術後355日
あばら屋の 猫も逃げ出す 寒さかな  年末の石蕗庵は、こんな駄句も思い浮かぶほどの寒さであった。年が明けても寒さは変わらずで、昨夜は初雪が降ったらしく、庭にうっすらと雪が積もっている。闘病中の身としては、つらい季節だ。なんとも春の訪れが待ちどうしい。
 さて越年だが、ははは。ものの見事に風邪で沈没してしまった。この間の記憶はかなり曖昧なのだが、思い出すままに越年日記を書くことにする。
大晦日
 朝風呂に入って身体を温めてから、正月用の食材の買い出しに出かける。寒気がするのと鼻水が出てきたので早々に帰宅した。どうやら朝風呂に入ってから出かけたのが災いしたようである。鼻水が止まらない。年越しソバ用のだし汁をつくったり、煮物をしていたら頭がボワーッとしてくる。夕方の5時ごろにすべてを放棄することにし、戸締まりをしてベットにもぐり込んだ。それから後の記憶がまったくない。年越しソバを食べることも、除夜の鐘を聞くこともなく、風邪であっけなく爆沈してしまったのである。

2006年 元旦
 元旦の記憶もさだかではない。トイレに数回は行ったような気もするのだが、どうもハッキリしないのだ。この数年は恒例のように、年末年始にかけて風邪でダウンしていた。だから気をつけていたのに、またまた風邪で沈没である。昨年は四肢麻痺の恐怖で緊張していたからか、まともに年越しができたが、どうも年末に気がゆるむ傾向にあるようだ。大晦日から元日にかけて、その記憶がないというのも妙な感じである。

1月2日
 午前9時ごろに空腹のために目がさめる。大晦日の夜から食べていないから無理もない。鼻水は止まっているが、頭はまだボワーとしている。玉子雑炊をつくったが、空腹なのにあまり食欲はない。体調は悪いが年賀状の準備をする。こんな状態では簡単なものしかつくれない。犬と戌の二文字を、割り箸を削った筆で書き、プリントゴッコで印刷する。気に入らないが目をつぶることにした。ぼくは書家ではないから下手で当然だ。しかし年々と手抜きの賀状になってくるなあ。印刷が終わったらフラフラで、宛名書きは断念する。夕方から爆睡で記憶なし。

1月3日
 久しぶりに暖かい日である。体調も少しは戻ったような感じだ。ぼくにとっては、きょうが元日のようなものである。昆布と鰹節でダシをとり、お雑煮をつくる。何となくお正月らしくなった。年賀状の宛名を書き、ポストに投函がてら買い物に出かける。外の風にあたると背中がゾクゾクする。まだ風邪は治っていないらしい。暖かいのに寒気がするのと、また鼻水が、買い物もそこそこに帰宅。薬がわりに梅酒のお湯割りを飲んで、ベットでまたまた沈没してしまった。


  正月雑感
01/11 (水)

  退院後345日  術後359日
大晦日から七草まで風邪で沈没していた。何だか、とても損をしたような気分である。でも、年越しが曖昧だったからか、歳をとらなかったのだと考えれば、それほど悪い気はしない。
 お正月用に買った食材は、おおかた駄目になったが、おかげで1キロちょっとダイエットできた。ははは。ものは考えようで、つじつまは合うものだ。

 お正月とは、いつまでなのだろうか。勤め人は4日から仕事だから、三が日だろうし、職人さんたちは松の内の7日までらしい。ぼくの子供のころは、家の中と外のお飾りを外す15日までが、お正月だったように思う。したがって、15日が過ぎると、いつまで正月気分でいるんだと叱られたものである。
 昔の習慣や、ならわしも、生活改善や時代の流れのなかで、かなり曖昧になってしまった。季節ごとのケジメがつかなくて、ズルッと時間が過ぎてしまうのだ。この十数年、家にいて日曜も祭日も不確かな生活をしていると、なおさらである。
 そんなわけで、どうも歳をとったという実感がない。だから、年齢を聞かれたときには、当年とって(10年マイナスして)と言ってから、自分の年齢を言うようにしている。でも、気は若くても肉体は正直だから、まいるんだよねえ、これが。闘病中は肉体の老化はストップしてもらいたいものだ。

 朝起きると、珈琲を飲むのが習慣になっている。これは体調をチェックするためである。味の感覚で好不調がすぐに確認できるのである。きょうの朝も珈琲を飲みながら新聞を読んでいたら、今年は年賀状を遅れて出す人が多かったと記事に出ていた。ラジオのニュースでも聞いたが、ぼくには不思議に感じられる。それは、郵便局の都合で設定した時期から遅れたということなのだろう。べつに年賀状が遅れたわけではあるまい。
 新しい年を迎えて、新年のあいさつの年賀状を書くのが本来の姿のように思う。年末に出すのであれば,クリスマスカードに新年へのあいさつを書き添えれば、そのほうが気がきいている。ぼくも、正月に不在だったら、そうするつもりである。

 ひと月ほど耐寒訓練状態だったせいか、最近は室温5度でも暖かく感じる。人間の順応性には驚いてしまうな。なぜ風邪をひくか、その原因はわかっている。各部屋の温度差が原因なのだ。冬期のあいだは、すごす部屋がきまっている。遊び部屋である書斎かコタツのある茶の間である。
 いつもいる部屋は15度ぐらいに暖房してある。だが、ほかの部屋は4度程度だ。この10度前後の温度差がクセモノなのである。すべての部屋の温度を同一にしたいのだが、これはむずかしい。一人暮らしだから、無人の部屋を暖房していて火事になったら大変だからである。
 大晦日は油断して風邪をひいた。今は暖房の部屋から出るときは、ベンチコート、毛糸の帽子,襟巻き,手袋の完全装備で対処している。人間も冬眠できたらいいのにね。ははは。体が良くなりゃ、冬期は南の島で越冬だぁ。

 


  後縦靱帯骨化症 難病申請
01/17 (火)

  退院後351日  術後365日
(2004年12月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 後縦靱帯骨化症は、厚生労働省の難病に指定されている。脊柱を連結する靱帯が骨化することによって、脊髄や神経根が圧迫を受けて、神経症状を来す疾患である。K先生の診断で,靱帯骨化症などという世にも恐ろしげな言葉を耳にしたら,迷うことなく手術を即決してしまった。恐がりだからなぁーぼくは。
 この靱帯骨化そのものの治療法はない。手術によって脊柱管を拡大し,脊髄圧迫を取り除くだけである。つまり、これ以上は症状を進行させないのと、四肢麻痺のリスクを無くすための処置なのだ。最近は、靱帯骨化が遺伝に関係していることや、自分自身の細胞の攻撃により、靱帯が骨化することがわかってきたらしい。

 1日は受診予定日。特定疾患の申請書に添付する診断書を書いていただく日である。申請書は市役所の福祉課で入手してある。ほかに検査はないので午後から病院に出かける。
 診断書を書いていただいてから、先生から手術の大まかな流れについて説明があった。ぼくの椎弓の減圧は、C4〜C7までの4頸椎とのことである。
 「脊髄関係の手術では,椎弓形成術はそんなにむずかしい手術ではありません」との先生の言葉を聞いて安心した。椎弓に挿入固定する、セラミック製のスペーサー見本を見せていただく。これが自分の頸椎に入るかと思うと,手に取って、しばし見入ってしまった。
 兄も同じ症状で手術を勧められていて、とても悩んでいると話したら,診るから顔を出すようにと言っていただいた。年内の検査は消化器内科が8日、神経内科が10日の受診となった。入院日が決まったら先生が直接電話してくれるとのことである。事務室に寄り、特定疾患の申請をする旨を話してから帰宅する。

 翌日に保健所の精神保健課まで、特定疾患の申請に出かける。なんだか歩行がギゴチなくて、杖がないと危なくて歩けない。この2ケ月で脊髄症状はかなり進んでいるようである。午後1時に無事に保健所に到着する。保健課受付の女性がデイパックをおろすのを手伝ってくれる。着膨れしているのと,ソフトカラーを装着しているので、うごきがロボットのようで見かねたのだろう。アクリルケースから申請書類も出してくれた。
 申請についての説明がある。審査があること、審査が通れば1月末ごろに医療受給者票が届くこと,医療費の公費負担は申請日からと、ていねいに説明してくれた。ありゃ、確定申告の写しが2年前のだ。ははは。頭まで症状が出ちまったと言ったら、女性が笑いながら「郵送でいいですよ」と言ってくれた。お役所だから事務的な扱いだと思っていたが、とても親切に対応していただいたので感激してしまった。こんな体のときには、親切というものが身にしみる。

 8日に消化器内科を受診。問診だけで、年明けの1月5日にエコー検査を受けることになった。10日に脳神経内科を受診する。時間をかけた触診検査と問診。若い先生だが、ていねいに画像と症状との因果関係を説明してくれた。左手と左足のしびれやコワバリ、排尿障害も脊髄圧迫の影響からと、K先生と同じ所見であった。1月18日に排尿検査(ウロラボ)をすることになった。これで年内の検査スケジュールはすべて終わった。あとは入院計画を練るだけである。


  入院計画
01/19 (木)

  退院後353日  術後367日
(2004年12月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 排尿障害、左手と左足のしびれ以外に、背中や腹部の圧迫感も強く出てきている。それと四肢麻痺の恐怖もあるので、特別な用事がない限り外出は控えて、とにかく、隠れ忍者のような隠遁生活をしていた。
 実家の兄に電話をかける。兄は前方固定の入院予約をしているが、手術については、まだ決心がつかないとのことである。K先生が診てくださるとの話を伝える。いろいろ話し合ったが、とりあえずは、ぼくの手術した経過を見てから、とのことになった。兄の周りでは頸椎の手術をした人たちの術後が、ほとんど思わしくないらしいのだ。そんな環境の中では,手術を躊躇するのは無理からぬことである。でも、手遅れにならないうちの決断も大事だ。

 ネットで椎弓形成術の術後から退院までの流れを調べる。情報公開している病院のHPから、術後のスケジュール表をダウンロードして検討する。K先生からも説明のあった術後のスケジュールと重ね合わせて、その流れのイメージを作りあげる。これには手術体験者の闘病記なども参考になった。それらの流れのイメージを頭の中にたたき込む。
 正確な情報をもとにイメージを構築しておけば、いざ本番になったときに、不安になったり、うろたえることはない。多少の修正が必用であったとしてもだ。特に手術においてのイメージの構築は大切である。自己治癒能力をつかさどる細胞に、首の改修工事の流れを知らせるとともに,フル出動のお願いをするためである。
 入院待ちの期間は、どうやら忍者生活で切り抜けられそうだ。手術はブラックジャックK先生に全面的におまかせだし,手術後から退院までの流れもイメージできた。あとは入院生活のイメージづくりだが、これが一番むずかしそうである。
 兄弟だけには手術を知らせたが,親戚には内緒にする。あまり大げさにはしたくないからだ。問題は友人や知人、ご近所に知らせるか否かである。ぼく自身としては入院しているときには、あまりお見舞いにきてほしくない。同病者は別だが,入院中は病だけに集中したいからである。お祝い事であれば賑やかな方がよいが,病のときには一人で静かに過ごしたい。というのが本音である。
 来年1月に入院する期間は,ぼくは暖かい南の島で過ごしている。この思いつきは大いに気に入った。ご近所や知人には暖かい沖縄へ出かけるので,しばらく留守にすると機会があるたびに話しておいた。
 だが友人には知らせないことにする。何となく作り話がバレバレになりそうだったからである。当分は留守電にして行方不明だ。別に命がどうのという手術ではない。退院してから,じつは・・・だった。これが一番よさそうな脚本である。
 これで入院生活のイメージが、だいぶ明確になってきた。したがって、ぼくは病院に入院するのではなく、南国のホテルに滞在するのだ。と、少し思い込みがはげしいようだが、これくらいにしないと楽しくないからね。病室の室温は半袖で過ごせるほど快適だし、4人部屋は専用の電話と冷蔵庫や液晶テレビ、共同のバス、トイレ付き。それに食事を自分で作ることもないから、我が石蕗庵に居るより、よほど快適な環境だ。ははは。これで決まりだな。
 


  入院準備
01/23 (月)

  退院後357日  術後371日
(2004年12月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 病院に入院すると考えると、どうも気持ちが暗くなっていけない。しかし、南国のリゾートホテルに滞在すると思えば話は別だ。これくらいの発想の転換をしないと,病院なんぞには入院できない。もろもろの神経には、心の状態がいちばん影響してくるからである。
 最初のシグナルの出る前の二十数年、ぼくは病院にはできるだけ近づかないようにしてきた。歯医者と目医者は別としてである。人間なんて,生まれた時から病と共存しているようなものだし,病院で調べればいくらでも出てくるかもしれない。だから、ぼくは病院に病気探しにいく気にはなれなかった。これは自然の摂理に基づいた,自己回復力を信じていたからでもある。
 しかし、基本的な体のバランスを崩すような症状が出てくれば,病院に駆け込むしかない。まして首の改修工事となれば、専門医のお世話にならざるを得ない。四肢麻痺にならずにすむなら、手術など、どうということもない。まあ、楽しいことじゃないけどね。

 入院するための準備をはじめる。病棟を下見したときに聞いた看護婦さんの話では、あまり荷物を持ち込まないでと言っていた。部屋の移動のときに大変らしいのだ。必用なものは,体を移動させるのに使う大きめのバスタオル、洗面用具、タオル,プラスチックの水飲み、下着、スリッパぐらいのものだと言う。僕にとっては大歓迎だ。なにせぼくは旅行者だからね。荷物の少ないほうがありがたい。
 買ったものといえば、ストローを差し込めるコップ、術後に着る前開きの半袖シャツぐらいのものである。あとは病院の売店で、細々したものは買い揃えればいいだろう。洗面器なども売店で買い、退院するときにシャワー室にでも寄贈してくれば荷物にはならないだろう。
 筆記具、MD、などとバックパックに詰め込んでみると、余裕で入ってしまった。これで完璧に旅行のスタイルで家を出られる。
 そうだ、出かけるときには頭に赤いバンダナを巻いて行こう。

 さて、入院する来年1月、沖縄旅行に出かけている件なのだが。入院手術が決まった以降は、外出するときには駅に着いてから、杖やソフトカラーを使うようにしていた。杖も折りたたみ式だから、デイパックに入れておけば気づかれない。つまり、脚本どうリに用意周到に行動していたのである。杖をついてヘロヘロ歩いてたんじゃ、ご近所や知人に感づかれてしまうからね。これで入院日を知らせる電話を待つだけである。

 


  睦月日記
01/27 (金)

  退院後361日  術後375日
1月13日(金)
 朝起きて雨戸を開けていると、床下からシマトラが出て行くのが見えた。どうやら夜は石蕗庵の床下で寝ているらしい。たぶん昼間は日のあたる暖かい場所を移動しているのだろう。考えてみりゃ、冬期は隣の家の陰になっていて、ほとんど庭に陽が差さないから無理もない。でも、ノラ猫は夏よりは冬の方が元気がいいらしい。冬毛と蓄えた皮下脂肪のせいで,あまり寒さは感じないらしいのだ。これは映画監督の新藤兼人さんの著書「ノラネコ日記」に書かれていた。うらやましいなぁ。ぼくは肝臓には脂肪があるが、皮下脂肪がないので冬はこたえる。とにかく飼い猫と一緒で、寒さにはまったく意気地がないのである。

1月15日(日)
 新聞広告や折り込みチラシを見るのは、けっこう楽しいものだ。今朝の新聞広告のコピーには感心してしまった。ウオーキング専用靴の通販広告である。「ある苦」を「ある喜」に変える一足。おっと、思わず電話をしたくなるコピーである。だが、ぼくはまだ「歩き」が「ある危」だからと思いとどまった。これが暖かい春だったならば、たぶん電話をしていただろう。

1月18日(水)
 きょうは術後1年目の検診日である。レントゲン,CT、MRIを撮り、K先生の診断を受けた。椎弓を折り曲げるために溝を作成した部分,スペーサーを固定した部分とも、新たな骨がしっかりと付いている。筋肉を温存した突起部分も,筋肉はしっかりとしている。外科的には完全に回復だ。が、脊髄損傷部分の回復はむずかしいとのこと。したがって、左手のしびれや肩のコリとか腹部の圧迫感などの後遺症は、当分は続くものと思った方がいいだろう。

1月25日(水)
 肝脂肪のエコー検査で病院に出かける。あいかわらず患者さんが多いので、検査や診察待ちは大変なものだ。暖房が効いているのと、待ちくたびれて気が遠くなりかけたころ,やっと名前を呼ばれた。診断の結果、ぼくの肝臓はフォアグラから、しもふり程度には改善したらしい。あと2キロほど体重を落としましょう。と、先生は言うのだが、このへんからの2キロが、なかなか減らないんだよね。半年後の診察予約をして帰宅。

1月27日(金)
 朝起きたら寒〜い。部屋の温度はマイナス2度、庭を見るとまだ銀世界だ。先日の降雪から6日も過ぎたというのに、まだ雪に囲まれていりゃ寒いはずだ。裏の空地もまだ地面が見えない。これじゃ我が家は冷蔵庫のようなものだ。なにしろ外の方が暖かいのだから、これはもう笑うしかない。寒さのせいか、左手のしびれと左肩の後ろがキリキリする。最近は家の中でも左手には手袋がかかせない。は、春はまだかなぁ〜。


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ツワブキさんの闘病日記/ (1) 2005年2月〜5月(2) 2005年6月〜9月(4) 2006年2月〜6月



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