ツワブキさんの闘病日記(2)

下肢の感覚がなく転倒

 転倒、後縦靱帯骨化症、脊柱管狭窄症(回想2003年1月〜12月) 日記記入日: 2005年06月〜9月 術後137日〜術後254日

 闘病日記(2)

▼ 2005年06月
  下肢の感覚がなく転倒
 通院日和
 骨がきしむ
 術後5ケ月目の検診
 優先席の不思議


▼ 2005年07月
  逆療法
  ここだけの話
  境界線
  ドン様の愛人
  ガモさんの展覧会


▼ 2005年08月
 続 ご隠居さま
 丹下左膳
 修行は続く
 お別れ
 青大将と家蜘蛛サスケ


▼ 2005年09月
 携帯電話
 イチジク戦争
 気晴らし
 お喋りパーティ
 夏物バーゲン
 続 お別れ
 身辺整理



闘病日記(1)
  2005年2月〜5月

闘病日記(3)
  2005年10月〜
  2006年1月


闘病日記(4)
  2006年2月〜6月



みんなの闘病記

サイトトップ







▼ 2005年06月
  下肢の感覚がなく転倒! 思わぬ体験
2005/06/03 (金)

 退院後123日  術後137日
(2003年1月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 正月あけ、1ケ月半ぶりに代々木のカイロに出かける。これだけ間隔があくと、通院とか経済的にも負担が少なくてありがたい。あいかわらず駅の階段は,手スリがあるとはいえつらい。上がるより下りる方が座骨にこたえる。代々木の駅に着いて油断したわけではないが、階段を降りたところで転倒してしまった。急に左膝から下の感覚がなくなり、倒れてしまったのである。
 「大丈夫ですか」とか「救急車呼びましょうか」などと、周りの人たちに声をかけていただいた。「大丈夫です,ありがとうございます」とお礼を言って、壁を背にして坐り込んだ。何度か動けなくなった経験もあり,坐って動かずにいれば回復するのがわかっていたからである。ほとんど歩道の端だったが、駅の構内は初めてである。予約の時間までは1時間もあるし,あわてることはない。しかし改札から見えるというのは、ちと場所が悪い。でも、この場所以外では歩行の邪魔になるので仕方がない。それに、格好がどう見たってホームレス状態だからである。
 ヨレヨレ帽子に着古しパーカー、ボチボチ付きの軍手とジーンズ、新聞紙をしいてのアグラ坐りである。改札から入ってくる人たちの視線が痛いが,近くに来ると下半身しか見えないので、あまり気にならなくなる。心ならずもの状況であるが、こんな機会はめったにない。「なってやろうじゃないのホームレス!」肚が据わると、とたんにおなかがすいてきた。朝食用におにぎりを用意してきたのに、食べそびれていたのである。昼食をかねて食べることにした。都会のジャングルの中での食事もオツなものである。他者から見れば、もう完璧にホームレスだろうなぁ。
 保温ボトルのお茶を飲みながら、ぼんやりと人の往来を眺めていると、自分が非日常の空間にいるように思えてくる。バリアの向こう側では、あわただしい日常が渦巻いているようだ。「おじちゃん、なにしてるの」子供の声に我に返ると、若い母親に手を引かれた女の子が、うしろをふり返りながら遠ざかっていくのが見える。時計を見ると、もう40分も経っているではないか。予約の時間が近づいている、ゆっくりくり立ちあがるが痛みはない。つかの間のホームレス状態から,あわただしい日常の世界にもどる。
 カイロまでは休むことなく順調にたどり着いた。待合室に入るとかなりの患者がいるようだ。それとなく話しを聞いていると、北海道から東京見物がてら一家で上京してきたらしい。1ケ月半に1度の通院ならば遠くからでも可能である。それにしても北海道とは驚いてしまった。前回と同様の測定や治療を終えたあと先生の診断を聞くと,少しずつ良くなっているとのお話である。前回と今回の測定チャート4枚を見くらべると、たしかに良い方へと変化しているのが見てとれる。ぼくの自己治癒能力もまんざら捨てたものではなさそうだ。きょうは転倒したことで思わぬ体験をしてしまった。考えごとをしながら歩いていると、思わぬアクシデントが待ち受けていることもあると、思い知らされた日でもあった。


  通院日和
06/09 (木)

  退院後129   術後143
 先週、肝機能の検診に病院に出かけた。入院前に受けたエコー検査から半年が経過している。ぼくのフォアグラ状態がどう変化しているのか、楽しみにしていたのに肩すかしの感じであった。問診と血液検査だけで,エコー検査は来年の1月中旬ということになったのである。考えてみりゃ肝臓なんて短期に変化するわけでもなかろうし、1年程度の経過観察が妥当なところなのだろう。でも、また手作り献立をつづけるとなると、ちょっと憂鬱な気分になる。ま、ガチョウになるのはゴメンだから「料理の修業じゃ〜」と考えることにしよう。身の置きどころのなかった肩コリ症状も、8割がた回復したようで楽になってきた。エレキバンの効果は大したものである。梅雨期がいちばん大変だろうと覚悟していたが、その前にヤマ場を越したので、こりゃスンナリとしのげそうだと期待している。

(2003年2月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 1月の中旬から5月の個展の準備をはじめていたが、思うようには進まない。なにせ体が健康時の半分位しか動かせないからである。とにかく3月上旬までに案内状を画廊に届けなくてはならない。エッチングプレス機にぶら下がりながら、なんとか作品1枚を刷りあげて、デジタル職人ガモさんのスタジオ「GAMORYS」に持ち込んだ。案内状の版下制作と印刷の手配をお願いするためである。いつも間際にも持ち込んでは無理をお願いしているが、今回も仕事を中断して対応してくれた。ありがたい。第一関門クリアでどっと疲れが出て寝こんでしまう。そのためカイロ通院日までの1週間は、ひたすら安静にすごしていた。
 それがよかったのか、通院当日は体調はすこぶる良好だし、天気も朝から雲ひとつない通院日和であった。風は冷たいが電車に乗れば,暖房が効いているので快適である。前回は駅で転倒してしまい、思わぬ体験をしたが、今回は何のトラブルもなく無事にカイロに到着した。昼の12時半の予約のせいか、いつも女性の患者さんばかりである。待合室では若い女性と奥様風のかたが坐っている。セレブな奥さんの次に名前を呼ばれた。
 治療前の測定がすんで治療台に向かうと、ちょうど奥さんが仮眠室に入るところであった。治療を終えて、しばらくしてからカーテンで仕切られた隣のベットに移動する。ほのかに香水の匂いがただよってくる。なんとなく、いい感じだな。カーテン2枚の向こう側にステキな女性が寝ていると思うと、胸がドキドキして目が冴えてしまう。やがて静かに流れるクラシック音楽をうわまわるイビキがきこえてきた。エッ、エ〜、あのセレブな奥さんがイビキを・・・。へェ〜「女性もイビキをかくんだぁ」これは、はじめての体験である。なにやら安心したら急に眠気がおそってきた。前後不覚に寝入ったせいか、起床後の気分と体調は最高であった。体を酷使していたので心配していたが、治療の結果は順調に推移しているようである。気分がいいと座骨神経痛も影をひそめているらしい。きょうはいい日であったと思うことにしよう。あしたから地獄の作品制作が待っているのだから・・・。


  骨がきしむ
06/16 (木)

  退院後136日   術後150日
 あれほど悩まされた首から左肩にかけてのコリ症状は、嘘のように回復した。しかし左手の後遺症の方は、手首のところがチョッと締めつけられる感じ。親指を除く指と,手のひらと甲がしびれている。それと術前に脊髄症状が出ていたところに違和感がある。でも、コリ症状から開放されて、生き返ったような感じだ。この3週間あまりの大凹凹はなんだったのだろう。いま話題の男の更年期障害じゃあなさそうだ。これはソフトカラーを完全に外すようになってから、1ケ月後からはじまった症状である。術前、術後の4ケ月ソフトカラーを装着していたので,首や肩の筋肉もかなり軟弱になっていたのかもしれない。それに術前の3年間は座骨神経痛でまともな運動などしていない。徐々にカラーを外していったのだが、少しずつ疲労が蓄積されて、コリ症状が出てきたと考えるのが、妥当のようだ。さして人生の重荷を背負っているわけでもないから、もう肩コリなんぞはゴメンだな。

(2003年3月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 5月の個展は、前回の個展のときに決めてあった。まさか自分の体がこんな状況になるとは思ってもいなかったからである。10年つづけてきた「自然の影」シリーズも、大気序章、火の章、土の章、今回の大気終章で完結である。ドタキャンも考えたが、そうゆうわけにもいかない。あちこち迷惑をかけるし,これ以上症状が悪化すれば、シリーズが未完に終わる可能性もあるからだ。健康体ならば半月もあればカタがつく刷り作業も、いまの体の状態じゃ4月末まではかかりそうである。とにかく金属版の版画制作は肉体労働なのだ。ぼくの版は、亜鉛板を雑木林などに半年ほど置き、大気で腐触させたものである。腐触は浅いので、市販の版画インクは使えないし、手製インクを詰めて拭きとる作業も、たっぷり2時間ははかかる。手製インクは数種類の顔料を、焼いた亜麻仁油で練って作るのだが、いつもの3倍の6日もかかってしまった。案内状を画廊に送る手配をしたり,エッチングプレス機の整備などが終わった時点で、もう10日になっていた。今月中には、ある程度の目鼻をつけないとヤバイことになる。
 ぼくのプレス機は手動で,ギヤ付きでもなければ電動でもない。圧をかけて回転させるのに、健康なときでさえやっとという代物である。先月の刷りでハンドルにぶら下がり、足も使うことでなんとか刷れることは確認しているのだが。こんなことを3日もつづけりゃ、ぼくの体は完璧に壊れてしまう。1日に1枚刷り、翌日は完全休養、このパターンなら、なんとかなりそうである。ところが3枚刷ったところで、ヘロヘロ状態になってしまった。鉄の塊のプレス機は手強いのだ。体中の骨がきしみ、足と背中の骨がパキパキ音を立てた。休養日を2日か3日にしないとどうにもならない。夢遊病者のようにフラフラしながらも、月末までに8作品を刷り上げた。当然ながら体はボロボロで、左座骨は歩行するたびに痛くなってしまった。
 来月初旬のカイロ通院まで、ひたすら休養することにした。とにかく通院できる状態まで回復させないことにはどうにもならない。たぶん、かなり悪化しているだろうな。
 


  5ケ月目の検診
06/22 (水)

  退院後142日  術後156日
 梅雨入りしたとはいえ,ここ数日は天気がつづいていた。だのに、朝からどしゃ降りの雨。きょうは術後5ケ月目の MRIとCT検査の日である。よりによって、きょう降るこたあないじゃないか。と、天を恨んでもはじまらない。あきらめて早めに出かけたが,駅に着いたら膝から下がビッショリ。電車からバスに乗り換え病院に着くと、皮肉にも雨は小降りになっていた。間が悪いときはこんなものである。あいかわらず外来患者の多さはハンパではない。患者さん,付き添いの人,お見舞いの人や病院関係者などの往来で、まるで駅ビルの中にいるような感じである。お昼時だからかもしれないが、とにかく人の多さには驚いてしまう。
 外来受付をすませてから、MRIの検査室に向かうが迷ってしまった。情けない話しだが3月にも検査で訪れている。しかも、ぼくはこの病院に3週間あまり入院していたのにである。病棟からエレベーターで向かう感じと、外来受付から向かう方向感覚がちがうからである。通りあわせた看護婦さんに確認すると、廊下に貼られたテープに沿っていけば着けると教えてくれた。うかつにも、今まで気づかなかったのである。大きな病院では、ぼくのような方向音痴の患者もいるであろうから,当然と言えば当然なことなのだが。でも、ぼくはお気楽人間だから下を向いて歩かないからね。
 受付をすませた20分後にMRIの撮影台に身を横たえる。この磁気共鳴撮影は、工事現場のような騒音を伴うが,耳栓をしているので耐えられないほどではない。むしろ、ぼくには狭いカプセル状の空間にいることの方がこたえる。べつに閉所恐怖症ではないが、何度経験しても慣れることはない。台上で軽く腹と頭をベルトで固定されて,装置の狭い空間に移動していくとき、ぼくはいつも潜水艦の魚雷発射装置に充填されていくような錯覚におそわれる。およそ20分ほどの撮影である。このあとにCT撮影をしてから、外来受付で K先生の診断を待つ。
 診察室に入ると先生はいつもの笑顔で迎えてくださった。近況報告などをしたあとに、先生から撮影画像について、ていねいに説明していただく。MRI画像では,術前に後縦靱帯骨化に圧迫されて細くなっていた脊髄が,減圧されたことで、本来の脊髄状態にかなり戻りつつある。ぼくのけなげな脊髄ちゃんには感動してしまう。骨化部での損傷部分が気になるところだが、これ以上望むのは贅沢というものだろう。CT画像では,椎弓を両開きに折り曲げた部分、セラミックのスペーサーを固定した部分,切断した棘突起部分(頸部筋肉群をつけたまま)をスペーサーに固定(フタをする)した部分。椎弓を減圧した4カ所のいずれの部位も新たな骨の生成が確認できる。先生から「順調ですよ」と、おっしゃっていただき、ホッとする。
 次の検診は術後1年後の来年1月だが、先生は「お互い顔も見たいし、話しもしたいだろうから」と言って2ケ月後の受診予約をいれてくれた。ほんとうに先生はやさしいな。こんなステキな先生に出会うために、ぼくには3年あまりの時間が必要だったのだろう。だから、この期間の闘病にもそれなりの意味があったと思っている。


  優先席の不思議
06/28 (火)

  退院後148日  術後162日
 朝の4時半に目がさめてしまう。起きて外を見ると,梅雨の時期とは思えないような天気である。このところリハビリウオークもサボっている。久しぶりに,お気に入りの散歩コースである川沿いの遊歩道まで遠征することにした。眠気ざましの珈琲を飲み、ストレッチ体操をしてから歩きはじめる。蒸し暑いが風があるので心地よい。途中で顔見知りの人たちと数年ぶりに出会う。べつに話しをするわけでもない。軽く頭を下げたり,手を上げてあいさつして、すれちがうだけの関係なのだが、なんとなく、暖かい気持ちになる。遊歩道の土手の斜面に咲く紫陽花の前で休憩していると,畑から帰るらしいおばあちゃんから、トマトをお接待された。お礼を言ってカブリつくと、なつかしい匂いと味が口いっぱいにひろがる。早起きは三文の徳と言うが,なんとも癒されるごほうび。おばあちゃんの愛情トマトと,風と風景とあいさつのお接待・・・。

(2003年4月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 あまりにも体を酷使したためか、座骨は捻挫したように痛む。したがって歩くたびに痛さが頭にひびくようだ。個展の見通しは立ったものの、体がこれではチョッとつらい。カイロ通院の日は朝風呂に入り、しっかりと体を温めてから家を出る。このごろは駅の手すり磨きも様になってきた。何事もなくカイロに着き、測定,治療が終わる。案じていたとおりの結果であった。測定チャートを手にした先生から、かなり悪くなっていると指摘された。安静にしていないと回復が遅れると注意される。でも、まだ作品刷りが6枚も残っている。安静にできるのは、まだまだ先の話しである。予想していたとはいえ、かなり悪化と言われると、気持ちまで重くなってしまう。
 めずらしく帰りの電車は混んでいて、とても坐れそうにない。そう思うと途端に左座骨がキリキリと痛みだす。こういうところが神経痛の悩ましいところである。電車の中央部にいたので、なんとか優先席のある前のほうへ、少しずつ移動していった。ところがである。優先席に坐る人たちは、ぼくのにじり寄ってくる気配を敏感に感じたらしい。それぞれに携帯電話のメールや新聞を読むのをやめて、突然睡眠発作におそわれたごとく,目を閉じてしまった。アリャリャ〜これじゃ取りつく島もない。外見は健常者だから、まわりの人も気をつかう素振りもない。脂汗も出てくるし,我慢できなくなり飯田橋駅で降りてしまった。ホームのベンチで痛みの収まるのを待つ。そんなことを3回も繰り返していたので、自宅に帰ったのは夜の7時を過ぎていた。
 それにしてもあの優先席というのは何なんだろう。その席を必用とする者が,なんの気兼ねもなく坐れる席こそ優先席というものだ。問題は外見が健常者に見えて、じつは体内に病を抱えている場合である。まず坐れる可能性はあるまい。いまの優先席は一般席となんら変わらないのだ。せめて編成車両の最後部車両の後部に、介護席を数席でもよいから設けていただければありがたいのだが。この日から注意して優先席を観察しているが、ほとんど元気印の乗客が坐っている。それに「優先席の付近での携帯電話のご使用は・・・」の車内放送、これも不思議だ。そんな人など坐っていないからね。


▼ 2005年07月
  逆療法
07/07 (木)

   退院後163日  術後177日                                                                    
 7月に入ってからは、梅雨期にもかかわらず体調はかなり戻ってきた。そんな先週の土曜日に、チャリでのリハビリ走行を企てた。逆療法で体を虐めれば,あるいは体調がもっと良いほうへ変化するかもしれない。あまり体をかばっていても、と思ったからである。ロードレーサーは2台あるが、安全を考えてフラットバーに改造したチャリで出かけることにした。目的地は少し遠いが、ぼくが入院していた病院まで。縁があって同じ頸椎の手術をした,植物博士のやせ蛙さんを見舞うことにしたのである。地図で調べると、車道を行けば往復30キロと距離は短いが危険が多い。距離は50キロと延びるが、車の少ない裏道や川沿いの遊歩道を走ることにした。
 ママチャリとちがってロードレーサーは快適だ。タイヤは親指ぐらいの太さだし、ギヤだって18段もある。往きは下り坂が多いから、走り出すと、すぐに風と一体になれて心地よい。数年ぶりだなあ〜この爽快感は。やがて平坦な道に出て、田んぼの中の一軒家、その庭先を通過したとき大きな黒い犬が吠えながら追いかけてきた。小熊ぐらいはありそうである,ヤバ〜!必死でもがくがメーターを見ると37キロがせいぜい。もうダメ、限界と横を見ると、彼はシッポをふりながら嬉しそうに走っているではないか。とたんに気が抜けた。彼はぼくのチャリと一緒に走りたかっただけで、案外いいやつかもしれない。やがて彼の縄張りから外れたのか、立ち止まってしまった。チャリをとめてふり返ると、大きなお尻をふりながら帰って行く。見事な四足モンローウオーク、おそれいってしまった。
 両足が痙攣しているので、チャリを押しながら川沿いの遊歩道まで歩く。足をマッサージしていると、年配のおばちゃん二人連れが話しかけてきた。デジカメで野の花を撮りながら、散歩しているとのことである。もう4時間も歩いていると言うから、かなりの健脚である。お二人からアンパンと飴のお接待。このところ、なぜかお接待が多い。3年あまりのイタタの修行のせいか、ぼくの身体からオーラーでも出始めたのかな。あしたからは、少し心を高くして生活してみよう。まあ三日坊主だろうけどね。
 かなり休憩したので、病院まで一気に走り12時すぎに到着した。売店でお弁当を買い、患者ラウンジで昼食にする。一休みしてから蛙さんの病室へ、アリャ〜姿が見えない、食堂を覗くとお仲間と談笑中である。少し話しに加わってから病室に移動。先生や手術のこと、写真と下戸さんの話しで、またまた、なが話になってしまった。奥様が面会にこられたので、おじゃま虫にならないよう、ごあいさつをして失礼することにした。帰路は遊歩道は快適なのだが、それからが坂道の連続である。息はあがるし足も売り切れ,自宅に着いたときには、もうヘロヘロ。シャワーを浴びてから、食事をする元気もなく早々に寝てしまった。
 翌朝、目をさますと体がポチリとも動かない。もしかしたら、またまた四足歩行・・・と不安になる。午後に身を起こすと、あちこち痛いものの大丈夫そうである。久しく使っていなかった腸腰筋をかなり刺激したのかもしれない。疲労回復のため2日目は食事をする以外はひたすら寝てすごした。3日目になると心地良いしびれ状態になり、起きて家事もできるようになった。4日目には体調は劇的に変化した。今まで休眠していた関節や筋肉が目ざめたような感覚である。左手のしびれは別として,どこも痛い箇所はない。だが、これで回復とはいかないだろう。やがて谷が訪れると予測していたほうが無難のようだ。ぼくの人生と同じで脊髄の後遺症だって、そうそう甘いものではなさそうだから・・・。


  ここだけの話
07/13 (水)

  退院後163日  術後177日
最近のスーパーは昔とくらべると、ゆったり買い物ができる空間になっている。闘病中の身としてはありがたい。ゆっくりと休憩できるように、ベンチやテーブル席も用意されているコーナーがあるからである。無料のお茶給湯器も置かれているので、ここでお茶タイムをする人も多い。ぼくも買い物が終わると、ここで30分ほどは休んでから帰る。目の前にある本屋さんで買った雑誌を読むこともあるが,たいていは、おばちゃんたちの会話に耳をかたむけて過ごすのである。
 とにかく話がおもしろくて退屈しないのだ。「ここだけの話」だけど、と声を低くして話すうわさ話は、たぶん2日か3日のうちには、皆の知ることとなるだろうし。話の内容も身ぶりの割には、たわいのないものである。だから「ここだけの話」は、おばちゃんたちにとっては、たんなる相手を話に引き込むための、枕詞(まくらことば)にすぎないのかもしれない。いれ替わりで坐るおばちゃんたちも、一様にこの言葉を使うので笑ってしまう。でも、あらためて考えてみると、ぼくにはこの言葉は手強すぎて使えない。それに、ぼくは「ここだけの話」をもっていないのである。

(2003年5月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 個展のための作品刷りは、ジタバタと4月末まで版画プレスと格闘していた。これでは額装は画材店ルートでは間に合いそうもない。チャリ仲間アートディレクターのKさんに頼み、作品を額製造メーカーに持ち込み、なんとか間にあった。それと身体がヘロヘロ状態なので、作品の搬入展示や搬出なども、ひとりではどうにもならない。ついでにお願いすることにした。会場の巷房は、昭和の初期に建てられたビルの三階にある画廊である。大正ロマンが漂うこのビルは、ほかにも多くの画廊が入っている。映画のロケに使われたり、ときおり雑誌に紹介されたりしている、銀座ではかなり古い建物である。手伝ってもらい作品展示は完了したのだが、会期中は画廊まで通わなければならない。忙しい中を観に来てくださるのに、ご本人が不在では失礼になるからである。
 月1回のカイロ通院でヒーコラしていたので、かなり心配だったが、不思議なことに会期中の行き帰りで痛みが出ることはなかった。想定外だったのは、画廊で立ち話中に急に左座骨に痛みが出てまいった。1日に数十人と立ち話をするので、結構これがツライのである。2日目からは丸イスを借りて、痛みがきたら、さりげなく坐るようにしていた。外見は健常者だから、ほとんど気づく人はいない。
 今回でシリーズが完結できたので正直ホッとした。個展と言っても「ジタバタ生きてるよ〜」というぼくの身ぶりとしての存在証明みたいなもので、それ以上の意味はない。こういう機会でもないと、友人やら知人の作家、お世話になっているかたがたともゆっくりと話せないので、同窓会のようなものでもある。
 会期中にはスイリーさんとも再会した。昨年お遍路を延期したあとに画廊でお会いして以来である。6月に日仏会館エントランスホールで開催される、スイリーさん企画の Vibrations Infimes Vol 2 展への参加を誘われる。会期は6月16日からの13日間で、参加アーチストは、ぼくを含めて3人とのことである。これが最後と思っていたのだが,スイリーさんの企画展で幕をおろすのも、何かのご縁であろうと、お願いすることにした。未発表もあるので作品はなんとかなるにしても、いつ四足歩行になるかわからない体調の方が気掛かりである。軽く返事はしたものの、どうなることやら・・・。


  境界線
07/18 (月)

  退院後168日  術後182日
我が家からおよそ30mも歩けば隣の市である。道路の真ん中が境界線になっているらしい。交通事故などがあると両方の市警察から出動してくる。そして、事故の場所と境界線を確認して,どちらかが引き上げていくのである。行政がちがえば当然なのだが、この境界線は何かがあると、こつ然と、その存在が浮かびあがってくる。普段はこの境界線を意識して歩いている人などいないだろう。
 ぼくのリハビリがてらの散歩コースは、隣の市が中心なのだが、ノラ猫の多いのには驚かされる。最近になって気づいたのだが、隣の市に住むノラ猫たちは道路の境界線をまったく越境してこないのである。不思議に思って観察していると原因がわかった。隣の市の側溝にはフタがないのである。玄関と車庫の入り口の側溝にはフタがある。これが格好の隠れ場所なのだ。越境してこないのは護身のためだったのである。ただ、例外が二匹いる。四代目ボス猫シマトラと隣の市に住むオス猫バットマンである。この二匹は、両方の市の道路を自由に闊歩している。
 シマトラは三代目ブチが旅に出てからは,どうやら気楽にやっているらしい。散歩の途中でもちょくちょく出会うのだが、たいていはメス猫と一緒で,しかも相手はいつもちがう。以外とモテルらしいのだ。イチャイチャするのは自由だが、ちったあ「家主に気をつかえ」とシマトラに嫉妬したところで仕方がない。ぼくも猫語が話せたらモテル秘訣を聞けるのに・・・残念だ。

(2003年6月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 5月の個展が終わり、日仏会館での企画展の作品準備,出品作家との打ち合わせや作品の搬入展示など、どうにか四足歩行にもならずにクリアできた。打ち合わせどきには、昨年の夏「お大師様のお告げ」の電話をくれたキュレータのMさんにも会えたし、スイリーさんにはすっかりお世話になってしまった。こうしてはじまった展覧会も会場に出かけたのは、初日のオープニングレセプションと取材を受けた日、カイロの帰りに寄った日の3日だけで、あとは家でひたすら安静にしていた。この数ヶ月かなり無理をしたせいか、左足をつくと左座骨に痛みが走るようになっていたからである。
 会期が終わり作品搬出が終わった日の夕方には、今までの疲れがドッと出て二階のベットに倒れこんでしまった。それから後の記憶はまったくない。ミシミシ音がするのと、外が騒がしいので目がさめる。窓を開けると近所のご隠居たちが、わが家に梯子をかけているところであった。なんだ、何事が起きているのか、寝起きのぼくにはこの事態がのみ込めない。
 とにかく着替えて外に出ると「おお生きていたのか」「心配したぞ」と声をかけられたのだが・・・この騒ぎはいったい何なのか。聞けば、なんとナンとぼくは、2日半も寝ていたらしいのだ。外出した様子もないし、玄関のチャイムを鳴らしても返事がない。電話も何度もかけたが出ない、こりゃ家のなかで倒れているにちがいない。ふたりで相談して、二階の窓から様子を見ることになったのだと聞かされた。ご隠居たちには、かなり心配をかけてしまったようだ。こんなご近所がいると「独り住まいの男性、ミイラ状態で発見!」などという新聞種になることは・・ないだろう。だから、ご隠居たちにはいつまでも健在でいてほしいと願っている。

 


  ドン様の愛人
07/21 (木)

  退院後171日  術後185日
四代目シマトラを見ていると、二代目ボス猫ドン様のことをなつかしく想いだす。12年前にはじめて出会ってから,約10年近くは石蕗庵の床下で暮らしていた。いろいろとエピソードはあるのだが、猫会議とドン様の愛人のことは強く印象に残っていて忘れがたい。猫会議の存在は本で読んだ記憶がある。そのときには「猫会議なんてマユツバだな」と感じたし、著者の作り話であろうと思っていたのである。だから実際に目にしたときには、妙に感動してしまった。
 それは晩夏のころで、寝苦しくて夜中に起きだし,濡れ縁で煙草を吸っているときである。なにやら気配を感じて床下を見ると,10数個の光る目が並んでいる。目をこらすと、わずかな月明かりのなかで、ぼんやりとその姿が確認できる。7匹ぐらいは集まっているようだ。逃げる気配もなく物音ひとつ立てず、まったく無言である。先ほどまで上で寝ていたのに、床下で鳴き声やもの音など聞かなかった。
 彼らはどんな方法で意思伝達をしているのだろうか。想像がつかないが、あるいは特殊な読心術でも心得ているのかもしれない。どんな話し合いなのか興味のあるところだが、ぼくにはそれを知るすべがない。およそ30分ほど観察していたが,ドン様を囲んでの無言の猫会議はつづいていた。不思議な光景であった。これでは猫会議を目にする人など稀であろう。ぼくもこのとき以来、猫会議を目にしたことはない。

 ドン様はたった一度だけ石路庵に愛人を連れてきた。この場合、人間ではないから愛猫と書くのが本筋だろうが,どうも雰囲気が出ないので愛人と書く。そのメス猫は、小顔でしなやかな姿態をもついい女,いや、いいメス猫であった。毛並みは真っ白で、ノラ猫だから野性味たぷりである。ドン様といえば、灰色と黒の縞模様の巨体で、ドンブリのような顔をしている。およそ不釣り合いなカップルだが、これも恋の不可解なところなのだろう。2日ほどしてドン様の愛人は一匹の子を産んだ。飼い猫は3匹ぐらいは産むようだが、ノラ猫は餌を十分に確保できない関係からか、自分の育てられるギリギリの一匹しか産まないらしい。産んでも一匹しか育てないと聞いたことがあるが、最近はそうでもないらしい。だからドン様の愛人の母猫は、躾のきちんとした母猫だったにちがいない。これも何かの縁と、子猫が育つまで食事の世話をすることにした。と言っても、ぼくの食事のお裾分けであるが。
 子猫は母親似で小顔、白毛で背中に灰色と黒の模様のあるオス猫である。母猫はぼくが子猫を抱くのを1ケ月ほどは黙認していた。だが、それ以降はけっして触れさせようとはしなかった。1m以内に近づくと歯をむき出して威嚇するのである。まるで「極道の妻たち」ではないか。本格的な子育てがはじまったのである。野生の猫として生きていくための躾である。晴れている日には庭に出て、昆虫などを捕獲する訓練もはじめた。半年も経つと、お尻をふりながら獲物を一発で仕留められるようにもなった。
 そんなある日、ドン様の愛人は子猫を連れて石蕗庵を出て行った。このときのドン様といえば、見送るでもなく「お願いだから出て行かないで」と泣くこともなく、あいかわわらず塀の上で昼寝をしていた。人間だったらこうはいくまい。それとドン様の偉いところは、ぼくが猫の母子に与えていた食事は見向きもしなかったことである。いったいその巨体をどうやって維持していたのか、まったくわからない。謎である。それ以後は息子を連れたドン様の愛人を二度と目にすることはなかった。たぶん、どこか遠くに旅立ったにちがいない。
 


  ガモさんの展覧会
07/27 (水)

  退院後177日  術後191日
逆療法のチャリ走行で体調はかなり良くなったが、それと引き換えのように眼科医院に通院することになってしまった。20日の朝に目がさめると、右目があかない。ただでさえ、ひかえ目!なのに、無理に目をあけると霧がかかったようでよく見えない。これは緑内障か白内障かもしれないと、かなり心配していたのだが、診断は結膜炎と下瞼にモノモライが2個できていて、化膿しているとのことだった。当分は目を休ませるようにと注意を受けた。ま、丹下左膳の状態だから、しばらくは静かにしているしかない。それにしても前日の19日に友人ガモさんの展覧会に出かけていて正解であった。いちにち遅れれば、たぶん観に行けなかっただろう。
 会場のギャラリーきんぎょは、東京千駄木にあり、地下鉄の根津駅から歩いて15分ぐらいである。谷中の路地もステキなのだが、この辺りの路地も古い下町の雰囲気が色濃く残っていて好きな場所である。表通りではなく裏通りを歩くのがコツで、いわゆる路地裏探検を満喫できるのである。路地を曲がるたびに、風が変わって吹いてくるのも、とてもいい感じなのだ。こんなに気分よく、しかも足をまったく気にすることもなく歩いたのは久しぶりである。四足歩行からだと3年と数ヶ月ぶりだ。
 ちいさな雑貨屋の前で足が止まってしまう。何かが光ったようだ。煙草の自動販売機が陽に照らされ,中の煙草のパッケージのひとつが妙に輝いて見えたのである。近づいてよく見ると、赤い丸の中にラッキーストライクと書いてある。ラッキーの文字に目が眩み、禁煙中なのに思わず買ってしまった。今まで吸ったことのない煙草なのに。で、ライターを雑貨屋で買うことにした。ぼくがケースからライターを取り出して声をかけると。ちょうどお昼の支度をしていたおばちゃんは、ふり向いてニコッと笑い「ハイ百円、そこに置いといて」と言って,またフライパンでお惣菜をつくりはじめた。「ここに置きま〜す、どうもね〜」と声をかけると、むこうを向いたまま菜箸を握った右手をあげて答えてくれた。なんかいいね〜、こういう対応は。さっそく灰皿のわきで一服すると、かなり強い煙草である。久しぶりなので頭の上から足の先まで軽いしびれが走る。こりゃ麻薬だね。いけないなぁ〜煙草は、神経にはよくないだろうしね。
 展覧会初日のギャラリーに着くと、ガモさんは、まだ作品の展示をしていた。頭の絹の帽子のせいか、身につけている絹のマフラーや絹のアロハシャツの印象からか、どう見ても中東風な人物にしか見えない。うらやましいな〜ぼくも変身願望があるからね。自分の作品を布にプリントして身にまとう。あるいは購入した人たちが身につけて街を歩く。まさに動くアートである。これまで写真、オブジェ、インスタレーション、版画と表現方法を変えながら、精力的に個展発表をつづけてきたガモさんだが、今回の布作品でも、あいかわらずガモワールドで楽しませてくれた。色のハーモニーが、なんとも心地よい。冷房もほどよく、ギャラリーの大きな窓ガラス越しに見える2本の孟宗竹の風情。あまりの居心地のよさに4時間も話し込んでしまった。
 帰り道では、例の雑貨屋の灰皿のわきに坐り、この日2本目のラッキーストライクを吸う。やっぱり軽くシビレが走る。まさか翌日からアン,ラッキーストライクの目の修行が待っていようとは・・・このときには思いもしなかった。この日に買ったアン,ラッキーストライクは18本も残っているが、吸わずに書斎の壁にピン止めになっている。吸うのはコワイし、やっぱり禁煙してラッキーにしないとね。


▼ 2005年08月
  続 ご隠居さま
08/04 (木)

  退院後185日  術後199日
昨年の11月下旬に大学病院脳外科で、後縦靱帯骨化症、脊柱管狭窄症と診断された。この日以来、寝るときには寝具をベットから布団に変更したのである。ぼくは、あまり寝相のよい方ではない。どちらかと言えば、かなり悪い方の部類にはいる。子供のころは、目ざめると自分がとんでもない方向を向いて寝ていたことに驚いた記憶がある。大人になると自然と寝相もよくなり、前日に寝た状態で目ざめることが多くなった。だが身体に変調があると必ず寝相が悪くなるのである。寝具を替えたのは,ベットから転落した場合には四肢麻痺になる危険があったからである。また術後も手術部位(頸椎C4〜C7の椎弓拡大)の人工的に骨折させた部分とスペーサーを固定した部分の骨がつくまでは、衝撃を与えては危険と判断したからだ。だから術後6ケ月ちかくなった7月上旬まで、布団で寝ていたのである。この間に不思議な体験をした。
 ぼくの脊髄症状は左半身に出ていた。これは靱帯骨化部で脊髄の左部分を圧迫していたためである。排尿障害は別として,左背中、左腹部、左手、左足にその脊髄症状が出ていた。就寝前にまっすぐに敷いた布団が、朝に目ざめたときには左にズレている。術前の1ケ月は左に10センチ、退院後では20センチも左に回転しズレていた。身体だけズレるのなら理解もできるのだが、布団と一緒というのが合点がいかない。6月の下旬あたりから、こんどは右に10センチほどズレるようになった。そして7月の上旬には、どちらにも動かなくなったのである。2日ほど変化のないのを確認してから、久しぶりにベットで寝る生活にもどった。やっぱりベットは快適だ。しかし、あの布団のズレはいったい、なんだったのだろうか。不思議だ。もしかしたら、ぼくの細胞たちが、夜中に特別編成チームを組んで脊髄の補修作業をしていたのかもしれない。

(2003年7月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 7月に入ったあたりから,隣の86歳の木彫家のご隠居と、斜め前の園芸の大家90歳のご隠居が,どうも絶交状態らしいのである。今までは毎日のようにお互いの家を行ったり来たりで、仲良くしていたのだが、パタリとお付き合いをやめたらしい。ぼくが座骨神経痛であまり外出もせず、家で養生しているのを知っているから,お互いに様子を見て、ぼくの家に来るのである。それぞれに相手がケシカランという話になるのだが,あいだにいるぼくとしては、じつに、じつに困るのである。どちらの味方をするわけにもいかない。話を聞けばあまり大したことではないのだが、当人たちにとっては,それは、それは大問題らしいのである。
 それは隣のご隠居の庭石をめぐる話である。ふたりで庭石の移動作業中に安全作業に関して、意見が合わなかったようだ。隣のご隠居は現役時代は大手建設機材メーカーの部長さん、斜め前のご隠居は某市の土木部長と安全に関しては一家言あるからややこしくなる。それにお互いに今まで我慢していたもの、それらを含めたものが爆発したらしいのだ。おふたりとも大正生まれで筋金いりの頑固者である。こうなりゃ仲直りは、とてもじぁないが、むずかしそうだ。仲裁をと思ったが,こんな大先輩が相手となると、若輩者のぼくでは役者不足である。それに、このところの無理がたたってイタタの状態だから、いい知恵も浮かんでこない。仕方がないので個別にお付き合いをすることになるのだが。なんとも妙な具合の三角関係になってしまった。
 このご隠居たちを老人などとはけっして侮れない。隣のご隠居は軽業師のごとく屋根にあがり屋根の補修はするし,木彫家だからチェンソーで丸太と格闘している。90歳のご隠居といえば、園芸の大家だからリンゴや梨の木、柿、サクランボ、石榴の木に登り剪定をこなす。隣のご隠居に負けず劣らずの身軽さである。それと月に一度は、以前に住んでいたC市までの片道70キロを、車をとばして友人に会いに出かけるのである。「ご隠居、そんなにイソイソ出かけるのは、向こうにお妾さんでもいるんでしょう」と冷やかしたら「ま、想像にまかせるよ、はははは」と、笑いとばされちまった。なんたる老人力。だから、おふたりを相手にしていると、ご隠居たちがとんでもない怪物のように思えてくるのだ。でも、仲直りしてもらいたいなあ〜ご隠居たちには。


  丹下左膳
08/10 (水)

  退院後191日  術後205日
先月の20日から、右目を患っていて不自由な思いをしている。およそ視界が90度しか見えなくなると、何事にも慎重になり動作も鈍くなるから、時間もかかるしリズムも狂うので、やけに疲れてしまう。家の中では眼帯をしていたが、外出どきには外して、レイバンの濃いめのサングラスをかけて出かけていた。うっすらとでも見えれば危険を察知できるからである。外出といっても丹下左膳の状態だから、スーパーに食材の買い出しに出かけるのがせいぜいなのだが。それと、もうひとつの理由は,眼帯をしていれば「どうしたの?」などと質問されかねない。これは頸椎の手術をし、退院したあとの経験から学んだものである。
 退院後の2ケ月あまりは首にソフトカラーをつけていたが、外出して顔見知りに出会うと必ず聞かれたのである。「あら、むち打ち症?」「どうしたの?交通事故?」と。ぼくは「ちょっと首を手術したもので・・」と答えていたのだが,当然これですむはずもない。病名やら手術の様子なども聞かれる。さすがに5人以上にもなると、ウンザリしてくる。これが2ケ月にもおよぶのだ。しかし、それとは裏腹に、説明もだんだん流暢になり、身ぶり手ぶりで講釈師のように語っている。そんな自分が嫌になるし呆れてしまう。そもそもぼくは無口な男なのである。そんな経験から、あまり目立つ格好はしないことにしている。冬だとヤバイ格好だが,夏だからサングラスをかけていても、怪しまれることもない。そのせいか、だれにも気づかれずにすんだのである。この地に30年近くも住んでいりゃ顔見知りも多く、いろいろと気をつかうのである。

 この4年ほどは、いろいろなイタタの修行をしてきた。座骨神経痛でも、脊髄障害でうめいていても、左手がしびれていても、それなりに気を紛らわせてくれるものがあったし、気持ちを癒してくれるものがあった。それがDVDやビデオで映画を観たり、本を読んだり,音楽を聴くことであった。ところが目が不自由になると、といっても右目だけなのだが、精神的にはチトつらいことになる。小説や映画の丹下左膳のようには、超人的な動きなどできはしない。家事も食事の支度のほかは、ほとんどパス。ラジオやステレオで音楽を聴くこと以外は、まあ、やることがないのだ。口惜しいけれども、いろんなオモチャで遊べない。おかげでジャズにどっぷりと浸ることができた。
 それで気づいたのだが,音楽というのは精神的に凹凹なとき、健康なとき、イタタのとき、目の不自由なときと、聞こえ方がちがうのである。その状態によって感情がちがうから、当然といえば当然なのだが。これも自分で負を背負ってみて、はじめて体験できる事柄である。なにかの負を背負うと、それを補うように、ほかの感性は鋭敏になるようだ。目が不自由になると聴覚はより鋭くなり、演奏者の息づかいまで聞こえてくるようである。レコードならともかくCDだと、この音域はカットされているはずなのに、なんとも不思議だなぁ〜。
 それでも丹下左膳の状態であれば、ラジオや音楽で癒されるが、これに耳が不自由になったらと思うとぞっとする。毎日やることもなく、羊が一匹,羊が二匹などと数えていたら,たぶん、ぼくは完全にウツになってしまうだろう。健康なときには、それを、あたりまえのことのように思っていた。だが4年ちかくもイタタの修行をかさねていると,健康そのもが大変な財産なのだと思い知らされるのである。あとの祭りだけどね。だから、目が見えて,耳が聞こえて、両手が使えて、ふつうに歩けりゃ、それ以上を望むのは欲というものだろう。ただ、もとの身体にもどれて,ふつうに暮らしたいと願うだけである。


  修行は続く
08/18 (木)

  退院後199日  術後213日
結膜炎やモノモライも治り、ようやっと眼帯もとれた。しかし、どうも両目で見ると左右の焦点が合わない。ピントがズレているのである。しばらく左目だけで生活していたから、その影響もあるのかもしれない。もともと軽い乱視だったのだが、検眼すると、それが、かなり進んでいるらしい。左右の数値もちがうので,この影響もあるのだろう。老眼もあるし、乱視補正した遠近両用のメガネをつくることを勧められた。ぼくとしては、まだ眼帯を外したばかりだし、とくに不自由でもないので、しばらく様子を見ることにしたのである。
 久しぶりにPCの電源を入れ、メールのチエックをしたり、ネット復活宣言を書き込んだりしていたら、アララ・・目が!ゴロゴロ、パサパサしてかゆくなってくる。どうやらぼくの目は、ドライアイの状態になっちまったらしい。眼帯をかけているときも、さびしくなるとPCでネットを覗いたりしていたが、ディスプレイを見ていると、3分で涙が出てきて止まらない。それで、いままでPCを封印していたのだが、これじゃPCいじるのは当分は無理のようだし、もちっと静かにしていることにした。イタタの修行がつずいているせいか、どうやら涙腺までもがご乱心らしい。
 旧盆の13日の朝、目ざめると口がひらかない。舌先を下の前歯に触れると、痛さが脳天までつきあがる。歯茎に触れるとパンパンに腫れている。かかりつけの歯科医院に電話をかけると、留守電で18日までお休みしますと喋ってる。アチャ〜なんという間の悪さ。あと5日も我慢できるかな〜耐えるしかない。頸椎の手術では術後の痛みはそれほど感じなかった。それにくらべりゃ、この痛さはどうだ!目眩がするくらいに痛〜い。口があまりひらかないのと、痛い歯に触れるので固形物は食べられない。野菜ジュースとお豆腐を、スプーンで流し込むだけだから体に力が入らない。氷で冷やして耐えていたが,15日にはその我慢も限界となる。こうなりゃ奥の手を使うしかないだろう。自分で手術をするのである。
 以前に足が化膿して歩けなくなったときに、自分で手術をした。あまり勧められることではないが、連休中で病院が休みだったからである。患部を消毒して、剃刀の刃をライターの炎で殺菌、患部を切開し膿を出してから消毒、マーキュロで処置し完治させたのである。要は化膿した膿さえとり除けば、あとは自己治癒能力にゆだねるだけである。でもこれは、あくまでも非常手段。今回はまさに非常事態だから、自己手術を決断したのである。
 イソジン、待ち針、ガーゼを準備。手ぬぐいで鉢巻きをして気合いをいれる。待ち針をライターの炎で殺菌、洗面所の鏡で確認しながら、歯茎の患部2箇所に針をブチこむ。ガーゼで患部を押しながら膿をしぼりとる。次に歯茎の裏側を刺すが、表面が凹むだけでうまく刺さらない。鏡では見えないから、舌先で確認し、息をつめて刺したら、こんどはバッチリ刺さった。ついでに涙もでたけどね。ガーゼで膿をとり、イソジンでうがいをして手術が終わった。雑菌がはいるとヤバイので夜は絶食、うがいだけをして寝る。翌朝には歯痛は完全に治まっていた。手術成功である。
 翌17日は退院後7ケ月(4回)目の検診日、歯痛も治ったので病院に出かける。診察室に入ると、先生はにこやかに迎えてくださった。いつも感じるのだが、先生の顔を見ながら話しているだけで、なんとなく癒されてくるのだ。問診だけだったので近況報告のあとは,やせ蛙さん、モチヅキさんの話で,またまた盛りあがってしまった。「あなたたち三人は不思議な人たちだね」と先生は笑いながら言う。不思議か〜そうかもしれない。退院するまでは、おふたりとは、まったく見知らぬ他人だったのに、これも何かのご縁であろう。首つながりだから、長いお付き合いになりそうである。 


  お別れ
08/23 (火)

  退院後204日  術後218日
先週、病院に出かけた翌日の18日に、思わぬ訃報がとどいた。斜め前に住むご隠居が亡くなられたのである。享年93歳で大往生とも言える年齢なのだが,一昨年までは車も運転していたし、闘病中のぼくなど、とてもかなわぬほどの元気さであった。ご隠居の息子さんも「私のほうが先に逝きそうだ」などと冗談まじりに語るほどにお元気だったのである。それが昨年の1月に急に具合が悪くなり入院されてしまった。それから1年2ケ月も、闘病生活をつづけられていたのである。ぼくが今年の1月末に退院してから、しばらく経った3月初旬に、ご隠居も退院されてきた。すぐにもお見舞いがてら顔を出すつもりだったが、ご隠居の免疫力が低下しているとのことで、しばらく様子を見ることにした。と言うのも、ぼくが風邪気味だったからである。とにかく病院のハワイ状態から、真冬の人気のない寒い家にもどったのだから、風邪をひかないほうが不思議というものである。風邪も治った3月下旬に、やっと対面することができたのである。
 久しぶりに見るご隠居は、ひとまわり小さくなられたような感じがした。ぼくの顔を見たご隠居は「もう駄目だよう、おしまいだよう〜」と力なくつぶやいた。ぼくは言葉もなく、しばらくのあいだ無言で坐っていた。血管の病気で左足を切断する手術をしたのは、昨年の8月に病院に見舞ったときに話を伺っている。それから右足の切断手術も受けたと息子さんからきかされていた。ぼくも四肢麻痺の一歩手前で頸椎の手術を受けたが、脊髄圧迫の後遺症は残るものの、日常生活にはとくに不自由はない。それにくらべれば、ご隠居は大変なイタタの修行をされていたのである。どうゆう言葉をかけたらいいのか、適当な言葉が浮かんでこない。そんな自分が情けなくなってくる。
 「ご隠居!両足が不自由でも、両手と両目が使えるじゃありませんか,がんばりましょう」と言ってから、少し後悔した。これまで十分にがんばってきたご隠居に、もっとガンバレと言うのは酷な気がしたし、あまり好きな言葉ではないからである。でもご隠居は「そうだね〜テレビも見れるし、両手でご飯もいただけるから、まだ幸せかもしれないね〜」と前向きに答えてくれたので救われた思いがした。7月下旬に再入院するまでの4ケ月は、週に2回ぐらいは顔を出し、2〜3時間ほどすごしていた。ぼくが四足歩行になってから、ずいぶんとお世話になっているので、これくらいは当然である。
 最初の1ケ月はなぜか死に関する話題ばかりであった。臨終間際の苦痛の有無,魂の存在、あちらの世界は存在するのか,これらのご隠居の直球の問いかけには、曖昧にはぐらかすことなく答えなくてはならない。と言っても、ぼくにそんな体験があるわけもない。せいぜいが図書館で読んだ本からの知識ぐらいのものである。そんなぼくの話を、ご隠居はウンウンと頷きながら聞いてくれた。あとの3ケ月は、もっぱらご隠居が子供のころからの話をしてくれた。それは、ぼくに語るというよりは、自分で当時を思いだしながら再確認するような響きであった。ぼくはベットのわきで、ご隠居の車椅子に坐りながら目を閉じて、ご隠居の思い出語りを、朗読劇を聞くように追体験していたのである。
 22日のお通夜の式場で、ご冥福をお祈りしながら読経を聞いているときに,お坊さんの読経と交差するように、ご隠居の思い出語りの声が、たしかに、聞こえてきたような気がした。ご隠居サヨウナラ、そしてありがとう・・・。
 
 


  青大将と家蜘蛛サスケ
08/28 (日)

  退院後209日  術後223日
ご隠居が亡くなられてから、もう10日にもなる。自分の息子ほども年齢がちがうぼくを、友人としてお付き合いをしてくれたし、シャレのわかるステキなご隠居だったが、いなくなってみると妙にさびしい。いまになって思えば,ご隠居は自分の死期を予感していたのかもしれない。それは、4月の1ケ月にもおよぶ死に関する話題である。とくに熱心だったのは、死んだあとの世界についてのことであった。
 「あの世の存在については世界中の臨死体験者が語るところによれば,それぞれに表現はちがいますが,光に満ちた美しい場所であると言っているので、たぶん、そういう世界が存在すると考えてもよいでしょう」と話すと「そうだといいね〜、だけど、そんなにすばらしいところなら先に逝った人たちは、なぜに知らせてくれないのかね」ご隠居はもっともな疑問を口にした。「そりゃご隠居、そんなすばらしい世界が在るとわかれば、現世の修行を積まずに逝く者が多くなるから、あちらの世界では御法度なんですよ、きっと」ぼくは口からでまかせのように言ったのだが。ご隠居は「それなら、何らかの方法で知らせるよ」と念を押すように何度も口にされた。そのときには、なんとなく聞き流していたのだが、告別式の2日後に不思議なことが起きたのである。
 朝起きて雨戸をあけると、濡れ縁の上に青大将の脱皮した脱け殻がある。およそ2mはありそうだ。こんな大きなものは見たことがない。昨夜のうちに脱皮したのであろう。この辺りに、これほど大きな青大将が住んでいるなどとは信じられない。姿など見かけたこともないから、なおさらである。なぜに、わが家の濡れ縁を選んだのだろうか。近所のおばちゃんに話すと,それは、むかしから縁起がいいものとされているから大切にしなさいと教えてくれた。
 その青大将の脱け殻は,いまは書斎のCD棚の側板にぶら下がっている。これで3年前の9月に、ぼくの右手を刺したスズメ蜂の勇敢なる戦士の屍とともに、闘病生活でのコレクションに加わったのである。それから2日後の夕暮れどき、部屋の電気を点けるか否か迷うほどの暗さのなかで,それは現れた。家蜘蛛サスケである。8年ほど前の10月の夜に,月明かりに照らされた障子の裏に、はじめて現れたときには腰を抜かすほどに驚いた。ぼくは爬虫類はそれほどでもないが、毛虫と蜘蛛は苦手である。障子の裏側にいる家蜘蛛は、月明かりに照らされて化け蜘蛛のように大きく見えたから,全身に鳥肌が立つような恐怖におそわれた。廊下側から恐る恐る近づいて確認すると、胴体は小さいが足を含めた全長は15センチほどもある。さらに近づくと1m ほど飛んで隣の障子に張りついた。まるで忍者のようである。この家蜘蛛をサスケと命名し、その場でサスケにお願いをした。「家のなかで活動するのは自由だが、それは、ぼくが眠ったあとにしてほしい」と。
 ぼくの願いを聞き入れてくれたのか、それ以後にはその姿を見せることはなかった。そのサスケが、ひさびさに現れたのである。玄関に面する出窓の下の壁に張り付いている。以前のように逃げる気配はない。定規で測ると22センチもあるが、あのときのサスケなのだろうか。記念写真を撮ったのだが、ストロボの光でも微動だにしない。それから1時間ほど経ったころに目をやると、サスケはどこともなく姿を消していた。不意に現れた青大将と家蜘蛛サスケ、なんとも不思議な出来事であった。もしかしたら、青大将とサスケはご隠居からの使者だったのかもしれない。


  八月の終わりに
08/31 (水)

  退院後212日  術後226日
石蕗庵から四代目ボス猫シマトラの姿が消えた。先週までは顔を見せていたのに,たぶん隣の市のメス猫と駆け落ちでもしたのだろう。散歩でもまったくその姿を見かけなくなった。うらやましいな〜。ぼくだって駆け落ちぐらいはしたいよ。でも、4年ものあいだイタタの修行がつづいていると、とてもそんな元気は出てこない。くやしいから色即是空の境地にいるとでも言っておこう。シマトラと入れ代わるように、隣の市のオス猫バットマンがはいりこんできた。名前の由来は,日韓W杯でのマスク姿の宮本選手に似ているので名づけたのである。彼は妙に馴れ馴れしいくせに、ぼくの顔色を伺いながら距離をとるのが気にくわない。それに濡れ縁で、いけしゃあしゃあと腕枕で寝ているのだ。初代のチャ虎,ドン様,ブチ、シマトラだって、気をつかって床下で寝ていたのに。じつに遠慮のないやつである。
 今朝も2階の窓から外を眺めていたら,お、恐れ多くもぼくの愛車ジムニーの幌の上で熟睡しているではないか。どうも、やつは眠るのに快適な場所を的確に嗅ぎ分ける能力をもっているようだ。さてバットマンがこのまま居つくのか,あるいは、シマトラが出戻ってバトルがはじまるのか見守りたい。
 きょうは目の調子はいまイチだが、体のほうは快調のようだ。天気もいいし気分も悪くはない。そこで懸案だったものを片づけることにした。昨年の8月から眠っているジムニーSJ30のエンジン点火と整備。道路の側面にある石垣上部、土手の草刈りである。
 ジムニーから外してあったバッテリーを積みこみ、プラグの掃除とオイルの補充をする。チョークノブを引きスイッチを回してエンジン点火。一発でかかるが、もの凄い音とともにマフラから多量の煙が吹き出す。2サイクルだから煙は出るが、それにしても多すぎる。ヤバイなぁ〜と思っていたら左隣の親父さんが出てきた。「凄い煙だね,よくもまぁ車検がとおるもんだ」と妙に感心されてしまった。そのうち四軒先に住むおじいちゃんまで現れる。「発動機のような音がしたもんで」と言って話に加わってきた。1983年のオンボロジムニーだから仕方がない。観客が増えて機嫌がよくなったのか、やがて音と煙もおさまり本来のジムニーサウンドにもどった。ジムニーちゃんも1年ぶりにイジってやったので機嫌もいいようだ。
 休憩してから草刈りにとりかかる。3mほどの石垣に梯子をかける。斜面での草刈りだから、梯子に乗ったまま剪定バサミで刈ることにした。ご隠居たちが植えてくれた紫陽花やツツジが隠れるほどに雑草が茂っている。剪定バサミは力もいらず雑草の根元からサクサク刈れる。梯子を移動しながら斜面の7割を下から刈りあげた。昼食後、足場のよい場所から上に登り、上から残りを刈りとる。さすがに疲れちまった。あと始末は後日にしてきょうは終わりにする。
 涼しいので上の土手で休憩していると、家の前に見知らぬ車がとまった。運転席から男性が降りてきて、携帯電話をとり出し電話をかけている。やがて、ぼくの家の電話が鳴った。「ハイハ〜イ私ですが」上から声をかけると、ふり向いた男性を見て驚いた。なんと、やせ蛙さんではないか!。なんの前触れもなく突然の出現にはビックリ。下に降りると、病院の帰りに寄ったとのことである。お互いの体調やら先生のこと、下戸さんの話でアッという間に時間が経ってしまった。こんど3人でイタタの慰労会をしようと言って帰られたが、うれしい同志の訪問であった。いろいろあった8月だが、最後の日も、予期せぬ蛙さんが現れて幕がおりたのである。


▼ 2005年09月
  携帯電話
09/02 (金)

  退院後214日  術後228日
闘病生活では、朝から晩まで炊事や洗濯と掃除などの家事に追われてしまう。休み休みだから仕方がない。いちばん時間がかかるのが炊事で,食材の買い出し、朝昼晩の食事の支度、食事や食後の後片づけである。献立も毎日が同じものというわけにもいかない。近所の奥さんたちからレシピの情報を得たり、ス−パーの中にある本屋さんで料理雑誌を立ち読みして参考にしている。夕食、翌日の朝食,昼食の献立を決めてから食材を買うのである。毎日のことだから結構これが大変なのだ。
 食の次が優先順位から洗濯である。松本零士の漫画「男おいどん」ではないが、洗濯物からキノコが生えては大変だから、夏期は毎日の洗濯がかかせない。干したり、取り込んでたたんだり、アイロンかけたり、猫の手も借りたいくらいだ。最後に掃除だが,これは毎日というわけにはいかない。台所や洗面所は毎日やるが、全体の掃除は週に1回ぐらいになってしまう。炊事,洗濯,掃除に裁縫を加えた家事の4Sは、ほんとうに大変なのである。家事の達人とは,たぶん、いかに要領よく手抜きができるかだろう。手を抜けばキリがない、手を加えればキリがない。故に家事はそれなりに奥が深いものなのである。

(2003年8月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 6月中旬から安静にしていたせいか、左座骨も2月あたりの状態まで回復してきた。しかし不安もある。歩行中に、ときたま痛くて動けなくなる場合があるからである。外出どきは、もしもの場合を考えてテレホンカード数枚はもって出かけていた。ところが最近になって気づいたのだが,公衆電話があまり見当たらないのだ。駅前はともかく街中を歩くとあまり見かけない。ぼくの住んでいる郊外の田舎町など、なおさらである。以前は散歩コースで見かける商店の店先にも、必ずと言っていいほど赤電話が置かれていた。それが、いつの間にか消えているのである。いつごろから、このような事態になったのだろう。携帯電話が普及して、その使命を終えたのかもしれない。もしも自分の身になにかが起きた場合どうするかである。街中ではいかようにも対応できようが、人通りのない田舎道なら助けなど呼べはしない。そう考えるとアナログ人間のぼくとしても、不本意ながらも携帯電話をもつしか手がない。
 販売店をまわって調べると家族割引がないから、月額料金は4〜5千円にはなるとの話であった。これでは、ぼくの使用目的では高額すぎる。諦めての帰宅途中に、飲み物でもとコンビニに立ち寄ると、プリペイド式携帯電話を売っている。店員に尋ねると、3000円のカードで2ケ月間使用できるとのことである。メールも使えるし、ぼくのような使用目的であれば、翌月に残高が繰り越せますと説明してくれた。これなら月に1500円、掛け捨ての生命保険と考えれば安いものである。こうして遅ればせながらも、ぼくは携帯電話をもつ身になったのである。これでどこで倒れようと電話で助けを呼べるので、まずは心配あるまい。
 しかし、慣れない物をもつと大変である。すぐに行方不明になってしまう。仕方がないので家の電話子機で携帯に電話をかけて、家中をウロウロすることになる。そのたびに押し入れの中,ベットの下,洋服ダンスの中から、着メロのトッカータとフーガニ短調が聞えてくる。それで、やっと行方が判明するのだ。最近は外出から帰ると、必ずキッチンのカウンターの上に置くようにしているから、行方不明になることはないが、いずれにしても気づかう物ではある。現在、4時間は通話できるほど繰越残高があるが、これは喜ぶべきことなのか、憂うべきことなのか。ぼくにとっては携帯電話は保険証書のようなものである。
 


  イチジク戦争
09/06 (火)

  退院後218日  術後232日
(2003年9月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 夏の季節で新陳代謝が活発だったせいか、体調も良くなったが、まだ、ときおり急に痛み出すことがある。だからといって体を動かさなければ筋肉が退化するし、あまり無理をすると、また四足歩行になりかねない。なんともこの兼ね合いがむずかしい。残暑が厳しいので日中は家の中で過ごしていたが、朝晩の涼しいときには自宅の近くを散歩して体力維持を心がけていた。そんなある日の朝,散歩から帰りシャワーを浴びてから一服していると、隣のご隠居が熟したイチジクを届けてくれた。話を聞くと、どうやら斜め前のご隠居とは、まだ仲直りをしていないらしい。「たまにはお茶でもどうだ」とお茶に誘ってくれた。
 木彫家であるご隠居の仕事場では、先ほどまで彫っていたらしいカラスの頭が転がっている。カステラとお茶をいれてくれた。ご隠居は黒いビニール袋を切って,彫ったカラスの首のところに巻きつけている。これは鳥除けだと言いながら、この5年ほどの鳥除けグッズをいろいろと披露してくれた。が、これらの手づくりグッズはあまり効果はなかったらしい。それからヒヨドリとのイチジク戦争について、身ぶり手ぶりを交えて話してくれたのである。ぼくにはご隠居が、風車に挑むドン・キホーテのように思えて笑ってしまった。
 お茶をごちそうになっていてチト言いにくいのだが「ご隠居の負けです」と努めて冷静に言ったのである。ご隠居はエッというような表情でぼくを見た・・・。ぼくはヒヨドリの肩をもつつもりはない。彼らは雑食で残酷な面があるからである。とくに夏の季節は食べ物が少ないので、なんでも貪欲に食べるのだ。蝉を追いかけ回し羽をむしって食べるし、ぼくの庭のトカゲも被害にあっている。だからといってヒヨドリを非難するつもりもない。ある意味では人間がいちばん残酷だからである。「どうでしょう、ヒヨドリと分け合って食べたら・・」と提案すると、ご隠居はこの家を新築したときに親戚から記念にいただいた苗木であり、いかに大事に育ててきたかを語り出した。そんなイチジクの木が5年前から多くの実をつけるようになり、楽しみにしているのにケシカランというわけである。なるほど気持ちはよくわかる。でもヒヨドリにとっては、そんなことは関係なく自然の恵みの果実のひとつにすぎない。
 「ご隠居イチジクの木も自然の恵みを受けて育っているわけだし、ヒヨドリだって自然のなかで生きていく権利もあろうというものです」「・・・それもそうだな」とご隠居は、しぶしぶ小さくうなずいた。「それにあちら様には制空権があるし、どう考えても勝ち目はありません」と言うと,さすがに軍隊経験者だから、すぐに制空権についても納得したらしい。かくして5年間のイチジク戦争は終わりをとげたのである。でも、せっかく手づくりしたのだからと、カラスをイチジクの木の枝に吊るしていた。それからもヒヨドリは、毎朝ご隠居が起きる前にイチジクの朝食をすませていたようで、ご隠居の作ったカラスはあまり効果はなかったらしい。だがヒヨドリはご隠居が食べて、なおかつ近所に配るくらいのものは、ちゃんと残しておいてくれたのである。そのご隠居も2004年8月に脳梗塞で倒れられて、現在も入院闘病中である。留守宅のイチジクの木は、虫が入ったのか枯れかかっている。道路側に延びた枝には、ご隠居の吊るしたヒヨドリ除けのカラスが,夏の終わりの風にさびしげに揺れている。


  気晴らし
09/09 (金)

  退院後221日  術後235日
先月の中旬にネットの復活宣言をした。しかし、それ以後も目の状態があまり思わしくない。まだPCをいじるのは当分は無理のようだ。どうも、ぼくの目はドライアイの状態になっているらしい。目が乾いてゴロゴロしてきて、2時間おきに目薬を差さないとパサパサしてかゆくなる。闘病記の更新は、今月も自重したほうが無難だな。しかし3ケ月も書き込みがないので、皆さん心配しているかもしれない。はやく良くなって3ケ月ぶんを埋めないと、今年中に入院手術の話までたどりつけそうもない。ヤバいな〜、キーワードの事柄はメモしてあるので何とかなるにしても、現在形の過去日記に月遅れがかさなり、考えただけで頭の中が混乱してハリフレホになる。
 先月はいろいろなことが起きて,いや起きすぎて,忘れられない8月となってしまった。きのうで月末に刈った雑草のあと始末がやっと終わった。指定ゴミ袋45リットルに12袋もあった。よくもまあこれだけ刈ったものだと、自分ながら感心してしまった。でもサンダル履きで紫陽花やツツジを急斜面に植えた、怪人ご隠居たちには負けるけれどもね。大変だったけれども、こうして使っていなかった筋肉を鍛えながら回復していくのだろう。退院直後からくらべれば雲泥の差で、体中の筋肉がそれなりに使えるようになってきた。しかし油断は禁物、あせらずゆっくりと回復させないと。
 きょうは久しぶりに上京することにした。知人から個展の案内状をもらっていたからである。最近いろいろあったから、たまには外出して気晴らしをしないとウツになるからね。まずは銀座に出ることにした。京葉線で新木場まで。新木場から地下鉄有楽町線に乗り換え銀座一町目駅で降りる。お世話になった巷房に立ち寄り近況報告をしてから、近くにあるギャラリー Kに向かう。4年前、京都市美術館での展覧会でお仲間だった大阪の作家、のんきさんの個展を観るためである。ギャラリーの扉を開けると、真っ暗でなにも見えない。サングラスを外すと、壁のようにセットされた作品がぼんやりと見えてくる。それは青森のねぶたのような大きな墨絵の作品であった。作品のあいだの通路を歩いて奥のブースに入ると,金箔銀箔で彩色された掛け軸状の作品が数点かけられている。それらは和ロウソクの灯の揺らめきのなかで,まるで呼吸してでもいるかのように揺れている。見えているようで見えないもの,見えないようで見えてくるもの。その、あわわの空間の間を現出させたいという作家の意図が伝わってくる。
 のんきさんと会話を楽しんでから外に出ると、夏の太陽がまぶしい。そうだ、子供のころの夏祭りの見世物小屋から出てきたときも、こんな感じであった。まだ体調も良さそうなので日本橋にも寄ることにする。同じ美学校出身のTさんが、リト工房ツクハエを立ち上げ、そのオープン企画のリトグラフ展が日本橋のギャラリーで開催中である。久しぶりのTさんのリト作品をゆっくりと鑑賞する。同じビルの4階にある工房に顔を出すと、Tさんと顔なじみの皆さんが談笑中である。ぼくも話に加わり、かなり長居をしてしまった。
 夕食をとるのと京葉線で帰るので有楽町駅へ。これは東京駅で乗り換えると闘病中の身としては、つらい道行きになる。ヘロヘロになるまで歩かされるからである。有楽町駅北口から目の前の国際フォーラムの中庭をとおり、階段を下りると京葉線の改札口である。遠いはずだよ東京駅から有楽町まで歩かされるんだからね。きょうは目や後遺症のことを忘れるくらいに体調が良かったので、いい気晴らしができた。それと久しぶりに外食も楽しめたし、たまには、こういうご褒美もないと・・・。
 


  お喋りパーティ
09/17 (土)

  退院後229日  術後243日
先日「ギャラリー睦」のオーナーMさんから電話をいただいた。「日韓交流展」のオープニングパーティへの、お誘いの電話である。夏休み明け最初の展覧会ということもあるが、あまり家にこもっていても体に良くないからとの気づかいである。「ご馳走を用意してまってるからね〜」と言って電話が切れた。きょうがその日である。このところ動物性タンパク質を摂取していないので、この際にたっぷり補給することにする。パーティは午後5時からだから昼食を抜いてスタンバイしていた。が、たまには外の茶店で珈琲を飲むのも悪くはなかろうと、少し早めに家を出る。外出どきは目薬とレイバンのサングラスは必携品である。駅ビルの中の賑やかな茶店に入る。ひとり暮らしだから、この賑やかな雰囲気がたまらないのだ。こんな場合は珈琲の味に関してはどうでもよい。賑やかさという精神の栄養をいただくだけだからである。
 ギャラリーに顔をだすと「いらっしゃ〜い、よく来たわね、体は大丈夫なの?」とMさんが笑顔で出迎えてくれた。あいかわらずミッソーニでオシャレている。出品作家たちにあいさつしたり、話を伺ったりしているとパーティのはじまる時間になった。久しぶりの動物性タンパク質を補給していると、ガモさんや顔なじみの皆さんが、つぎつぎに訪れてくる。建築家のマクォット氏や、たけちゃんもお元気そうだ。「最近は闘病記の更新がないけど、どうかしたの?」とマクォット氏から聞かれる。アチャ〜やっぱりきたか・・「目を患いまして、治ったんですけど今度はドライアイになっちまって、良くなったら再開します」と言ってはみたものの、いつ再開できるのか見当もつかない。
 アリャ〜版画家のA子ちゃん外人の男性を連れてるよ。声をかけると、「彼氏で〜す」と紹介してくれた。男性はアメリカ出身ですと流暢な日本語で自己紹介をしてくれて,ツワ式英語を使うことなくホッとした。とても優しそうな男性でA子ちゃんラブラブ状態である。昨年会ったときに、某文学賞に応募する小説を書いていると話していたが、その結果を聞くのを忘れてしまった。こんなラブラブじゃ、聞かなくて正解だったかな。
 Mさんに「もっと食べなさ〜い」と勧められたが、これ以上いただくと体脂肪が心配なので固辞した。それならとケーキと珈琲をいれてくれる。ケーキだって相当に脂肪を含んでいる。だからぼくは、これまでケーキの誘惑に耐えていたのに。ああ駄目だ。「きょうは特別の日、特別の・・・」と呪文のように唱えながら、久しぶりのケーキを満喫していたのだ。ぼくはどうもこの種の誘惑にはよわい。
 陶芸家のTさんが顔を出す。話では腰痛らしい。大きなオブジェ作品を作るから窯の出し入れで痛めたのかもしれない。来月このギャラリーで個展があるのであまり無理をしなければいいが。アレッ、ガモさんがワインボトルに洋服を着せている。オリジナルのハンドタオルで作ったらしい。あいかわらずユニークなガモさんである。ワインボトルの枕やベットも作るらしい。なんか楽しそうだ。きょうは動物性タンパク質をたっぷりと摂取できたし、大勢の皆さんとお喋りができた。
 このところ、あまり喋っていなかったから、パーティの2時間は喋りぱなし。食べて喋って、喋って食べて、大いにお喋りを楽しんだ。やっぱり人間とお喋りするのはいいなあ〜。ノラ猫のバットマンやカマキリのサユリちゃん相手だと、言葉が通じなくて疲れるのよ。ははは。いいパーティ日和だった。


  夏物バーゲン
09/18 (日)

  退院後230日  術後244日
夏物衣料の最終バーゲンの情報が入る。折りこみチラシの情報がないから、知り合いのおばちゃんたちに電話情報をお願いしてある。というのは、ぼくは新聞を年に3ケ月しか購読していない。家にこもる1月から3月までで、ほかの季節はブラッと出かけて家を留守にするのが多かったからである。ほとんど家にいる闘病生活の現在でも、そのパターンは変えていない。毎年この季節になると来年用の夏物衣料を買うのである。7〜8割引きで買えるからね。今年は目をつけていたベージュのジーパンと麻混の生成りのブレザーである。はたして売れ残ってバーゲン品になっているか否かが気がかりであった。
 売り場に行くと、幸運にもお目当ての品が並んでいる。さっそくジーパン2本とブレザーを確保、試着するとブレザーの袖が15ミリも長い。まあ安く買うのだから仕方がない、目が良くなったらジーパンの裾直しのときに、ブレザーの袖詰めにも挑戦してみよう。支払いをすますと定価 二万六百円が 四千五百円で買えた。これに、今までの「つもり預金」を加えると念願のデジカメ D70Sが手に入りそうである。なんでも定価より安く買えれば「つもり預金」煙草を吸ったつもりで「つもり預金」ははは。まあ暇だから、こんなことをして遊んでいる。ミシンもこの数年は使ってないから、いじってやるのが楽しみだ。

(2003年9月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 悪夢の四足歩行から約1年半、カイロ通院も11ケ月(7回)にもなり、座骨神経痛もかなり回復してきてはいる。カイロでの神経測定も、初診のときからくらべれば、そのチャートのブレ巾は緩やかになっている。だが3月〜6月にかけて体を酷使したので、その影響からか現在でも2月の状態から少し良くなった程度である。
 ここで、今までの経緯を整理してみると。整形外科のレントゲンで、背骨が曲がって脊柱管が狭窄状態になっているのを確認した。それで神経根に触れて座骨神経痛になったのも理解した。しかし腰の牽引だけで背骨の曲がりが治るとはどうしても思えなかった。そこで、別の治療法をと決断したのである。紹介されたカイロで診てもらうと体の重心が狂っていた。原因は頭が左前方にズレているためで、そのズレを修正することで体のセンターを正常に戻す。つまりバランスを保つために自分自身で曲げた背骨を、ズレの修正治療をしながら自己治癒能力で正常な状態に戻す。これは、ぼくなりに理にかなった治療法であると続けている。自己治癒能力に依存するわけだから時間がかかるのは承知しているが,あとどれほどの時間を必用とするのだろうか。
 最初のシグナルからもう2年以上が経過している。体の状態も整形外科に通院していた当時にくらべれば、かなり回復しているのは事実だが、先の見えてこないことの方が、なんともつらい。この10年、自然のなかで制作してきたインスタレーション版画も、5月の個展でシリーズ最終章の幕をおろすことができた。これで版画になんの未練もなくサヨナラできる。「もっと続けたら」という声もあったが、知ってしまったことの繰り返しや、同じ身ぶりをつづけることは、ぼくには、なんの意味もなく耐えられない。新しい展開をと思うが、この体では無理だろう。もう人生の第二幕もおろす時期がきたのかもしれない。これからも四足歩行になる可能性だって十分にあるし、最悪のことも考えておかなくてはならない。ひとり暮らしだから身動きできなくなってからでは遅い。ある程度は身辺を身軽にしておく必用がある。来月からは身辺整理に取りかかろう。


  続 お別れ
09/24 (土)

  退院後236 術後250日
先月の23日が斜め前に住むご隠居の告別式であった。その1ケ月後の秋分の日に、隣のご隠居が亡くなられた。昨年の7月に、くも膜下出血で倒れて入院されたが、手術から10日で早々と退院してきた。翌日には庭仕事などはじめられたので「ご隠居、むかしだったら1ケ月は入院するような病だから、しばらくは安静にされては」と言ったら「軍隊で鍛えているから、こんなのは、何ということもない」と一笑されてしまった。
 それからも夜遅くまでノミの音がしていたので、たぶん木彫の仕事をされていたのだろう。心配していたのだが、翌月に買い物の出先で脳梗塞で倒れられた。手術から1年あまりの入院闘病も、最近は元気になり闘病記を書くと家人に言っていたようだが、容態が急変したらしい。斜め前のご隠居を追うようにして逝かれた。享年89歳である。2年前に絶交状態になり、お互いが入院してしまったので仲直りの機を逸していたのだが、たぶん、あちらの世界で仲直りをされているにちがいない。
  お通夜の式場の入り口には、ご隠居が展覧会に出品した木彫作品が飾られていた。なつかしい作品だ。ご隠居は展覧会が近づくと、制作中の作品へのアドバイスをと、ぼくを呼びにきた。具象作品は、ぼくなりに感じたことをお話したのだが、抽象作品は別である。これはご隠居の感性の身ぶりだからとアドバイスを固辞した。それでよかったのだろうか、と、今でもときどき思い出すことがある。毎夜のように聞えてきたノミの音は、もう聞くことはない。
 読経やお焼香が終わると、お坊さんからお話があり、そのあと四国八十八ヶ所の巡礼で唄われるご詠歌をうたわれた。このような席でお遍路のご詠歌を聞くのは、はじめての体験である。目を閉じて聞いていると、もの悲しい哀愁をおびたその旋律は,美声もあいまって、まだ見ぬお四国の異空間へと誘われていくようだ。
 思えば,3年半前の2003年3月に座骨神経痛のために、四国への遍路行きを断念した。そして、その年の8月に遍路経験のあるMさんから「お大師様のお告げ」の電話をいただいた。面識のない Mさんからの突然の電話だったので驚いたが「来る時期ではない」という言葉が妙に心に残った。それから3年以上もイタタの修行がつづいているのである。脊髄圧迫の後遺症が治るのに、あと、どれほどの時間を必用とするのだろうか。身体が元にもどればお遍路行きは可能なのだが、どうも、そればかりではないような気がするのだ。もっと「心の整理をしてからこい」と言われているようにも思える。親元を離れてから今日まで,なんとか世間様にあまり迷惑もかけずに暮らせてこれた。これは自分だけの力ではない。自分の力などは三割程度のもので、あとは周りの人たちに支えられていたからである。若いころから行く先々で、多くのかたたちと出会い、そして大変にお世話になった。その多くのかたがたも、もう亡くなられている。きちんとしたあいさつもできずに逝かれてしまった。身体が良くなったら、父母はもとよりお世話になったかたがたへのお礼と供養を兼ねた、お遍路旅に出かけよう。そうすれば新たな出発ができるかもしれない。
 持鈴の音で我に返ると、ご詠歌はそろそろ終わりに近づいているようである。つかの間のお遍路旅への思いめぐらし。出会いは楽しいものだが、別れは、いつも突然であっけない。そして、さびしいものである。節目に鳴らされる持鈴の澄んだ音色のせつなさ、その余韻は心の奥のヒダにまで染みいってくるようだ。ご隠居サヨウナラ・・・そして安らかに。


  身辺整理
09/28 (水)

  退院後240日  術後254日
(2003年10月〜12月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 10年前も同じような身辺整理をしていた。人生の第一幕をおろしたときである。それまでのぼくは、勤め人をやっていて「短い人生だ,いろいろと経験しなけりゃ、その最終章で後悔する」そう思っていたのである。若いころから広く浅くあらゆることに首を突っこみ、それらを楽しみながら体験していた。だから平社員というポジションは時間が自由に使えて居心地がよかったのである。もっとも出世するほどの頭もなかったから、それは退職まで続いていた。出向の話があったときに、これは天からの啓示だと、なんの未練もなく退社した。人生はそうそう長くはない。いつかは好きな世界にどっぷりと身を浸してみたい、常々そう思っていたからである。
 一幕をおろすとなれば、その舞台装置の遊び道具や諸々のガラクタがいっぱいある。それらを処分しなければならない。ぼくは気が多いほうだから、それらがあるとたぶん誘惑に負けてしまうだろう。つまり、なにかを捨てなければ前に進めないタイプの人間なのである。遊び道具,カメラ機材、油絵関係の道具類,蔵書、蒐集したレコード、描きためた油絵作品などを整理した。カメラ2台と若干のレコード、いただいた本や再読したい本は残して、ほかのものは全部処分した。蔵書やレコード、道具類は、ぼくが所有しているよりは、それを必用とする者にわたれば、より活きようというものだ。
 こうして第二幕の舞台装置はととのったのだが、版画家として幕をあげるには、なにかが足りないような気がしていた。およそ世間様の役に立つことをするわけでもない。働きもせずに売れない作品をつくって遊ぶわけだから、それなりの覚悟はしなけれならない。そのころに友人のM君からハガキが届いた。岩井のアトリエからで山猫亭と記してある。近況報告のなかで、頭を剃るのはじつに気持ちがよいものだと書いてあった。ここでヒラメいた。「そうだ、ぼくも頭を剃ってみよう」こうすれば少しは世間様に対しての、うしろめたさも、うすらぐというものだ。こうしてはじまった二幕も、その幕をおろすときが、とうとうやってきたのである。
 今度は闘病中だから大変だ。200kgのプレス機と周辺機材,未使用の銅板や亜鉛板、顔料と薬品類など考えただけでも目眩がしてくる。それに作品を乾燥させるためのベニヤ板も数十枚はあるし、使用ずみの版だって100枚以上もある。使用した版はべつとして、あとの全部を引き取ってくれる相手を捜さなければならない。あちこち声をかけていたが,最終的には知り合いの工房の紹介で、美大の大学院生が使ってくれることになった。当日はトラックなど車2台と6人で運び出したが、大変な作業であった。全部が運び出された家の中はガラーンとしてさっぱりしたものだ。不要な家具類もこの際リサイクルショップで引き取ってもらう。プレス機が占領していた小さなアトリエも書斎として改造してみよう。
 一幕を終えたときには頭を剃ったが,二幕では電話番号を変えることにした。長く使用していた番号は知れ渡っているのか,最近は諸々の勧誘電話が朝から鳴りっぱなしである。電話局に事情を話して、番号を変えてもらい、変更した翌日からは静寂な生活にもどった。あとの細々した処分品などは少しずつ体調をみながら片付けていこう。急ぐことはない。第三幕の幕をあげるまでに、その舞台装置をととのえればいいのだから。 


▲このページの上に戻る
ツワブキさんの闘病日記/ (1)2005年2月〜5月 | (3)2005年10月〜2006年1月 | (4) 2006年2月〜6月



みんなの闘病記のトップ | 楽楽サイトトップ